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じゃあ、なぜ、みんな歌わないか。
[2008/03/31 01:57] 教育・学校
昨日に引き続き、学習指導要領についての記事から。



【主張】新指導要領 国歌を「歌える」のは当然
2008.3.30 03:06                           産経ニュース

 小中学校の新しい学習指導要領が官報で告示され、道徳教育で愛国心をはぐくむことや、国歌を歌えるよう指導することなどが明記された。公教育で身につけるべき当然の指導内容だ。

 告示された学習指導要領は、2月に公表された指導要領案に広く意見を求め、それを参考に手直しされた。

 主な修正は、道徳教育について総則で掲げた目標に「わが国と郷土を愛する」ことを加えた。国旗・国歌の指導では小学校の音楽で、君が代は「歌えるよう」指導するとした。

 また国語では古典学習の一環として読み聞かせで、昔話のほか「神話」も例示した。

 修正によって明確化されたこうした指導内容は、戦後の学校教育でおろそかにされてきた。

 教育現場では愛国心育成などに対して反発がある。卒業・入学式にしても一部の教職員が国旗掲揚、国歌斉唱を妨害するような行為が依然としてある。

 今年の卒業式でも大阪府門真市の中学校で国歌斉唱のとき、それまで起立していた生徒が次々に座る問題が起きた。

 一部の教員が国歌斉唱時の不起立を促していた可能性があり、起立して斉唱した卒業生は1人だけだったという。門出を祝う厳粛な卒業式にそぐわない光景だ。

 教育基本法が改正され、幅広い知識や教養とともに、公共心や規範意識を育てることが重視された。戦後教育の弊害が見直されようとしている。

 今回の修正に対しても教職員組合の日教組や全教は「愛国心押しつけ」などと批判している。

 しかし、自分の生まれ育った国や郷土について深く知ることは他国をも尊重することにつながる。自国に誇りを持ち、情報発信していく人材を育てる教育は、国際化のなかで必要性が増している。

 国づくりの歴史や先人の伝記など、祖父母や親から世代を超えて伝えるべきものがなかなか伝わらなくなっている今だからこそ、学校教育での指導が期待されているのである。

 新指導要領ではゆとり教育を見直し、授業時間や学習範囲を増やした。知、徳、体ともバランスのとれた人材育成がねらいだ。

 指導要領改定の趣旨を理解せず、妨害したり形骸(けいがい)化させることはもうやめるべきだ。公教育再生へ意識を変える必要がある。




まぁ、当然こういう話も出てくることは予想されたけど。
でも、おかしいと思わないのだろうか?この考え方。

>>公教育で身につけるべき当然の指導内容
>>門出を祝う厳粛な卒業式にそぐわない光景
>>祖父母や親から世代を超えて伝えるべきものがなかなか伝わらなくなっている今だからこそ、学校教育での指導が期待されている
>>指導要領改定の趣旨を理解せず、妨害したり形骸化させる

まず第一に。
この記事では、一切具体的にこういう方策をとるべきだ、という点については論じていない。
単に新指導要領に文句を言う人間は愚かだ、と切り捨てているだけで。
じゃ、実際どこをどうしていけばいいのか、という根本にはまったく触れていない。

その中で唯一書いていることは、
「学校教育での指導が期待されている」………要するに、学校にお任せしておけばいい、という人任せな視点。

現在の社会を乱している考え方に流れているものは、「○○に任せればいい」という思い。
それが結局、うまくいかないのは○○のせいだ、という責任の押しつけにつながっている考え方だ。
正論を論じているようで、とても怖い考え方だと思う。

もともとは。
道徳の心、人や物を愛する心の根本は、家庭で育まれるべきものだ。
学校は、なんのためにあるかといえば。
「勉強するところ」なのだ。

すでに、家庭である程度しっかり人格形成された子供たちが、学ぶ場所、なのだ。
スタートは、「家庭教育である程度ちゃんと集団生活が成り立つ」という最低限の道徳のルールが成り立っている、というところにあるべき学校教育。

それが、今はまったく成り立っていない。
家庭で学び終えているはずのことを、学校がすべて背負っているのが事実だ。
そして、なぜ、家庭での教育力が低下しているか。
社会自体に余裕がなく、ゆとりがなく、それについてゆっくりと考える時間がないからだ。

そこからして、もう、間違っているのだ。

卒業式に、なぜ、国歌と言われている曲を歌わないのか。

これは学校現場だけの問題ではないとわたしは思う。
戦争に対しての責任から逃れようとし、過去の罪を覆い隠そうとする人々の存在。
けれども、隠そうとしても決して隠せるものではない事実は、いつまでも深く人の心に残っているから、それだったら、隠さずにそのあたりについてもう白日の元でいろんな意見を戦わせればいいのだ。

あちこちで、変に覆い隠す。
あちこちで、訳のわからない論争が起こっている。
国歌に対しての人々の気持ちが統一されないのも、いつまでもその歌に込められた人の思いをちゃんと並べて整理していかないからだ。

規則にして押しつけてむりやり歌わせて、解決する問題ではない。
学校現場だけの混乱ではないのだ…。

実際、地域によっては国旗を揚げることや国歌を歌うことに対しても、抗議する人々のいるところがある中で。
学校がたとえ一生懸命に決まったことだからといって歌わせたからって、地域やそれを見ている子供たちの心がおさまることはない。

国歌を、なぜ、歌わないか。
こんな形で、最初からはっきりと、国民に示せないような指導要領の決め方を、何で国はするのか。

そこを曖昧にしたままで、「指導要領改定の趣旨を理解せず、……云々」という表現は、あくまでも表面的な正義を振りかざしているに過ぎないとわたしは思う。

そう…理解すべき「趣旨」自体があまりに曖昧で無責任すぎるから。

授業時間を増やせばいい、という問題ではない。
授業内容を、増やせばそれでいい、という問題でもない。
ゆとり教育は、なぜ失敗したのか?
それを求めるものも、指導するものも、納得の上で始まったものではなかったからだ。

わたしは、ゆとり教育は今の世の中には本当に必要な要素が含まれていると思う。
ちゃんと理解し、共通の地盤にたって行われれば。すばらしい成果が出るはずの理念だった。

それが、なぜ、失敗したのか。
そこへの反省も見直しもなく、ただ、元来た道に戻るだけでは、また同じ過ちを繰り返すだけ、ということにどうして気が付かないのだろう。

もう一つ言わせてもらえば。
指導要領について形骸化させているのは学校現場では、ない。
むしろ、上からの指導を何とかしようと突然与えられた物に対して必死で動き回り、思い切り混乱しているわけで。

思い切り振り回されたあと、ようやく形になってきたかと思うとあっけなくころっと方向転換で、また混乱に逆戻り。
こういう現場については、「批判している」とか「形骸化させている」と、責任を押しつけられて終わりでは、子供たちのために頑張った現場の人々はあまりに悲しいと思う。

ゆとりに対しての批判も、まずは学校現場の周囲の方から起こってきたという認識があるが、それはわたしの記憶間違いだったろうか?


改訂された指導要領は、いったい何処にむかっているのか。
それすらもつかめず、十分に討論されたともいえない状況で、そこについていけ、というにはあまりに子供たちのこれからに対して、失礼だ、とわたしは思う。



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