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教育問題の原点はここにあり。
[2008/01/22 14:34] 教育・学校
この頃利用しているGoogleの「アラート」機能。
これはものすごく便利な機能だ。

わたしはこのアラートに「教育」をいうキーワードを登録しているが、そうするとたいてい一日に一回、「教育」に関するブログやネットの記事について集めてきて知らせてくれるのだ。

今日、そのアラートから目についた記事をひとつ紹介したい。

所得格差がもたらす日本の教育格差
リチャード・カッツという方の記事だ。

ここから目を引いた文を引用したい。

 戦後の日本で最も賞賛に値する成果の一つに、高い社会的流動性を持った能力主義国家の建設がある。貧困層や中間層の子供でも、能力と野心さえあれば社会的に上昇することができた。これは子供たちだけでなく、国家にも大きな恩恵をもたらした。

(中略)

 だが日本は“機会が平等な国”の地位を失おうとしている。

(中略)

 公的資金の貧弱さと公立学校の教育の質の低下に対する懸念、能力に応じた教育を妨げている偽りの“平等主義”が、中産階級の親に大きな負担をかける結果となっている。

(中略)

 文部科学省によれば、75年から97年まで高校生1人当たりに費やされた公的支出額は3倍に増えているが、それ以降は横ばいのままである。一方で授業料に学習塾などの費用を合わせた「学習費」は年々増加して、04年では私立高校の生徒1人当たりの金額は年間103万5000円。公立高校の同51万6000円と比べ2倍もの開きがある。

 その結果、生徒の学力の差が拡大しただけでなく、他の国と比べて平均的な生徒の成績も驚くほど低下してしまった。従来、日本の生徒は教育の達成度でつねに上位にランクされていたことからすれば、これは落胆すべきことである。

(中略)

 つまり、日本の教育格差は他の国よりも拡大しているのだ。納見准教授によれば、拡大のスピードは他の国よりも速くなっているという。

(後略)




今、「教育再生審議会」で話されている内容と、この記事で問題視されている部分で、その「問題意識」の差がかなり大きいことにお気づきだろうか?

教育再生審議会で話されていることじゃ、もうどうにもならない日本の公教育の事情。その見当違いな討論に気がつかない政治家達。
この時点で、日本の教育の実力がすでに推し量られてしまうと思うんだけど、それをまじめな顔して「これをやれば教育が復活する」と真剣に信じているのだろうか?

そう思いたくない、と心の奥で願いつつも、やがてはここでの議論が公教育の上からの「方策」として全国の小中学校に浸透していくのか、と思うとちょっと背筋がぞっとする。

教育の問題は、もうその「中身」が云々じゃないんだと思う。

教育を支える、周りの認識自体がおかしいんだ。
教育を見守る人々の認識の食い違いや、意識のずれ。
これをうまく埋め合わせていかなければもう、どうにもならないのだ。

勤勉でまじめ。
日本人の良いところだと思う。
勉学に対してもものすごく強い気持ちを持っているようにも思う。

その方向性を今、間違えた方に持って行っていないものか。

本来、子供と先生、という2者の「信頼関係」で成り立っていた教育の基盤は、崩壊してしまっている。
地域と学校、という2者の間にあったはずの「信頼関係」も完全に無いに均しい状態だ。

その関係を見直すことなく、ただ「学校」や「先生」をいじってからといって、もうどうなるものでもないように思うのだ。

取り戻すべきは…再生すべきは…この「信頼関係」じゃないのだろうか?
そこに流れる、人対人、の温かい交流じゃないだろうか?

「金は出さずに口だけ出す」上からの押しつけの状態が今後もずっと続くのだったら、教育現場は縮こまるしかなく、何も出来なくなる。ますます「公教育」は廃れるばかり、なのだと思う。

そもそも、「公教育」だの「義務教育」だのはなんのためにあるんだろう?

生きるために必要な知識を身につけ、そして自分が豊かに暮らすために学ぶ、その機会をみなに均等に与えるため…じゃないんだろうか?
だから、「税金から補助を出し」て、「どんな人にも学ぶ機会を与える」ことが公教育の意義じゃないんだろうか?

「みんな一律」に「同じ事」を教えて、「同じ気持ち」にすることが「公」の意味ではないはずだ。

必要なお金はしっかり出す。
だけど、現場それぞれで子供に対応していく力を信じ、それぞれに「任せる」。

それが「公教育」の本来の姿じゃないのだろうか?

教育課程は…「これを教えなさい」という押しつけのためにあるのではなく、「ここまでは最低身につけた方が良いですよ」という単なる基準であるべきじゃないのか。

「金は出さずに口は出す」国の姿勢では、日本の教育…公教育はますます廃れるばかりで、勉強するには金がなくちゃ、という社会からは未来への希望もなにも感じられず、有能な人材も、才能も、発掘されることなく埋もれていってしまうのに…。


子供達の中には、たくさんの希望が眠っている。
計り知れない才能も、眠っている。

これからの日本の「未来」を考えたときに、「金のあるもの」だけからこれを見つけ出すよりも、「すべての国民」から見つけ出した方がずっと可能性が大きいのに…。
そのための「投資」だと思えば、教育費は決してかけて損はない、と思うのだけどね…。

教育環境に恵まれて上に立つ人たちには、そういうことわからないのかな。。。

引用記事の本文はこちら。

ちなみに、教育再生審議会での提案がこちら
これって、明らかに「監視組織」を作ることの提言だと思うのは、わたしだけでしょうか?

どうしようもない提言を、監視を付けてしっかりと守らせる…。
教育の「規制」を強化して、ますますダメにするだけだと思うのですが…。

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≪倖田來未の「失言」騒動に思う 幸せは一つじゃない。≫
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