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ほんとうの意味で改革したいなら…
[2007/07/10 00:17] 教育・学校



「07参院選 教育の行方を左右する」  7月9日(月)信濃毎日新聞社説より

 統一の学力テストを行う。学校の評価やテスト結果を参考に、親が学校を選ぶ。学校を評価、指導する行政機関を設ける。こうした学校間の競争で教育に活力を生み、子どもたちの学力を向上させる-。

 1988年に始まったイギリスの教育改革の話だ。サッチャー首相は国際的な競争力を高めようと、改革に乗り出した。先ごろ退陣したブレア政権も受け継いだ。

 その功罪は、英国で子どもを育てるジャーナリスト、阿部奈穂子さんの「イギリス『教育改革』の教訓」(岩波ブックレット)に詳しい。

 英国ではかつて、授業内容などは学校や先生の裁量の範囲が大きかった。全国共通のカリキュラムを作ったことで、教えるべき内容が標準化し、目指す学力水準が明らかになったという評価がある。

 その一方、競争や国の査察によって学校に優劣を付けた結果、学校が「勝ち組」と「負け組」に分かれ、格差が広がった。成績優秀校の近くの不動産価格が高騰し、裕福な家庭しか通えなくなったケースもあるという。

   <猛スピードの改革>

 安倍政権が始まって9カ月余り。「すべての子どもに高い学力と規範意識を身に付ける機会を保障する」と“教育再生”を猛スピードで進めてきた。そのモデルはイギリスの教育改革である。

 昨年12月には、戦後教育の根幹である教育基本法を全面的に改定した。公共の精神、愛国心といった教育の目標を盛り込み、個人よりも公を重んじる意味合いが強まった。

 官邸直結の「教育再生会議」も発足させている。第一次、第二次の報告は思い付く限りの提言を盛り込んだといってもいい内容だ。

 その中から今国会で決まったのは、教員免許の更新制など教育関連三法の改正である。文部科学大臣に教育委員会に是正を求める権限を持たせる。学校には新たな管理職を置けるようになる。

 今後は「ゆとり教育」の見直しによる授業時間の一割増、土曜授業の復活、大学・大学院の改革、などが具体的な検討課題となる。教員の給与にも、指導力などの評価を踏まえて差をつける方針だ。

 矢継ぎ早に見直しを急ぐ安倍政権の考え方の基本は、教育の場で競争を強めることだ。学校や教員を競わせ、評価することで、学校の質を高めようとしている。

 学校の現状を見れば、「こんな人には教えてもらいたくない」という教員はいる。子どもに理由のないレッテルを張ったり、わいせつな写真を集めたり、盗撮するなどは教員として論外だ。いじめや不登校などにきちんと対応できない学校が、このままでいいわけがない。

 一方で、うつ病など精神的な疾患で休まざるを得ない教員が増えている。保護者や地域住民の考え方、価値観が多様化し、増え続ける仕事をこなすだけで精いっぱいという先生が多いのも現実である。

 親の所得や私学のあるなしで、教育格差が広がっているとの指摘もある。いまの学校をなんとかしたいという思いは多くの人にある。

   <競わせるだけでは>

 ただ、企業社会のように学校に競争原理を入れ、国の管理を強める方がいいのか。安倍政権の教育改革路線の是非を考えるのが、参院選のポイントの一つになる。

 教育関連三法の論議などを通じて気になるのは、学校に過剰な競争や管理を持ち込むと、先生が子どもたちに向き合うゆとりがなくなるのではという心配だ。政府は、教育予算や教員の定員を増やすどころか、削減していく方向だ。

 各党の公約を読み比べると、教員の数をどうするか、学校の権限をどこまで広げるかなど、これからの教育の在り方を左右するポイントが見えてくる。

 自民党は新憲法の制定に続いて、教育の再生を掲げる。教員の資質・能力の向上、高等教育の国際競争力の向上、規範意識の育成、など9項目が並ぶ。

 公明党は、少人数教育システムや地域・学校に権限を移すことなどをうたっている。

 野党の民主党は教員養成を6年に引き上げるなど、教員の質と数の充実を図ると訴える。高校の無償化も一つの柱だ。

 少人数学級の実現を掲げるのは共産党と社民党である。国民新党はゆとり教育を見直し、教員を増やすと訴える。新党日本は、30人学級の導入、教員採用試験の年齢制限撤廃などに触れている。

   <進むべき方向は>

 教育にかかわる公約は、聞こえのいい内容が並びがちだ。一つひとつの是非も大事だが、各党は教育全体がこれから進むべき方向について、明確に語ってほしい。

 イギリス方式で、子どもも学校も競わせるのか。「ゆとり教育」を転換し、土曜日の授業を復活させるのか。規範意識を高めるために「徳育」を教科にするのか-。

 とりわけ、先進国では最低水準の日本の公的な教育費を、今後どうするかは重要な問題だ。

 自分の子どもには、こんな教育を受けさせたい、学校はこうあってほしい、といった願いを1票に託すのが大事になる。





最近、教育関係のニュースをチェックしたいと思ってGOOGLEのアラートに「教育」と登録したら、今日はこんな記事がひっかかった。

地元の信濃毎日新聞の社説の文だ。

読みながら…う~ん、社説ってこんな感じでいいのかな、とか思ってしまった。
かんじんの「論点」はどこにあるんだろう?
今回の選挙において、教育問題にも意識を置いて投票しましょう、ということなのかな。

読んだ後に今ひとつもやもやの残る内容だった。

でも、こうやって新聞の社説で教育問題についてまとめてくれるのはありがたい。
もっともっと、こういう記事で取り合えてもらえると嬉しいのだけどな…それももっと焦点的に。


まずひとつ。

「競争」を教育の場に取り入れるのは悪いことではない。
ただ、問題となるのはその「規準」。

今のように紙のテストだけに教育の善し悪しを頼っている状態だったら「誤った競争」に走る可能性が大きい。
それは、学校の競争も、教師の競争も。
そして、走り出したら加速が付いてなかなか止まらない…暴走に向けて。

まずは、「規準」の見直しをしてから…だ。競争理論を持ち込むのは。


もうひとつ。

日本の教育は、いいかげん「政治」から切り離すべき、だ。
行政の介入などもってのほか。
政治の思惑通りに動く子供たちを作っても意味がない。
その「思惑」がどこにあるのか見えないから…今の政治は…だから、なおさらだ。

こういう監視的なものを作るよりも、もっと学校独自の取り組みを育てられる環境が今の学校には必要だ。

学校の監視の目だったら今だって山ほどある。

家庭…地域…マスコミ…政府…。
そして時には、同じ学校内の教師同士で…。

これらの監視の「視点」がみんなバラバラで統一されていないから、それぞれの監視から出る指令に振り回されているのが今の学校…。

そういうものから一度、解きはなってみて欲しいものだ。
学校自体のもつ自浄作用をもっと信じてみる人はいないものか…。


そして一番は…。

口は出すけど金ださない。

そういう政治や行政を何とかして欲しい。
そういうものに左右されるから、金の出し場所もめちゃくちゃだ。
もっと必要な場所に使って、いらないところから削ればいいのだ。

教員には時間が欲しい。
生徒自身と向き合う時間が。

そのためには教師の増員は必要だ。
余裕がないから教師も疲れ果てて自分のことしか目が向かなくなる。
教師の質を上げたかったら、教師が自分で勉強する、学んでいく環境にするべきなのに、そういう時間も余裕も与えず、「質の向上」と言っては規制でがんじがらめにして、逆効果だと言うことにいいかげん気がついて欲しい。

本来、勉強が好きな人種だと思う…教師って。
自分の向上には余念がない人間なはずだと思う…教師って。

そういう人間を、そう出来なくしているのは今の現状であり、今の環境であることに気がつかなければいつまでも改革なんて無理だと思う。

そう、根本的に…「人間として」教育を見直さねば…人が人を育てること、生徒は教師から人を学び、教師も生徒の中に人の純粋さを見る。
そういう人と人との関係の無くなった現在の教育現場には、なにをしても火に油…。

そこに気がつくことから初めて、「教育の再生」が始まるのだと思う。

選挙に勝った負けたの材料としてしか語られないのは…何ともさびしいことだ。

政党のせい、政治のせい、人のせい…そういう思いから抜け出さなければ、教育の再生も無理なのだ。


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教育・学校 | トラックバック(1) | コメント(6)
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≪災害時の連絡網 終わった・・・≫
コメント
日教組が意味をなしていないのは同感ですよ。平日の授業をほっぽらかして国会前でデモ活動ですからね。公務員にあるまじき行動です。彼らは教育などどうでもよく、時代遅れのイデオロギー実現のために教育現場を利用しているにすぎません。北朝鮮による拉致に幹部がかかわった疑いももたれています。
ですから単に「行政の介入=悪」という一面的な旧来の考えでは、何も変わりはしないのです。むしろ日教組を間接的に支持し、のさばらせることになるのです。
[2007/07/22 18:05] URL | さる [ 編集]
>さるさん

日教組は、もう正直いってあまり意味をなさない団体と化していると思います。

日本の教育自体、すでに暴走をはじめていて、この危機的状況は誰が悪いだの、どこがいけない、だの言って直るものではないと思っています。

社会の人間一人一人がみな、「自分は子供の未来にかかっているんだ」という意識を持って子供たちを見、教育を見ていかねばならないんだ、とわたしは思っています。

ですから私は今、わたしに出来ることとしてブログや自分の身近な人達に自分のわかる範囲で教育の問題を伝え、一緒に少しずつ…小さな事からでいいので出来ることをやり始めています。

日教組を何とかしなくては…と、おっしゃるさるさんは、日教組を無くすために、何をなさりますか?

それをお聞きできたら、そこでまた、わたしは私に出来ることを積み重ねていきたいと思います。
[2007/07/22 00:53] URL | コマちゃん [ 編集]
「日本の教育は、いいかげん「政治」から切り離すべき、だ。 」
おっしゃるとおり。
ですから、日教組をなんとかしなければならないんですよ。
[2007/07/21 12:59] URL | さる [ 編集]
>イケドンさん

>>教師や学校を評価するって意識

本当にその通りなんですよ…。

考えてみたら、会社に勤めている人を同じように評価するでしょうか? 

同じ公務員でも、政治家に対してどんな評価制度があるのでしょうか?

なぜ、教師に対してだけは外部からのこういう評価がなされなければならないのでしょうか?

人と人との関係において、「信じる」という言葉がだんだん薄れてきているように思います。

まわりが信じなくなっている。
だから教師も学校もまわりを信じない。

するとますますまわりは教師や学校に不信感…

今はこのどうどうめぐりに陥っているように思います。

信じられなければ信じてもらえない。
これは人間関係において基本ですよね。

そういう基本の人間関係にどうして持って行かれないのかなぁ~。なぜ、それじゃいけないのかなぁ~。

そういう思いがぬぐえないでいます。


>vase jauneさん

はじめまして、ようこそおいでくださいました。

貴重なご意見をお寄せくださって感謝しています。お返事遅れたこと申し訳ありません。

>>私にとってのその時間は、「授業中」であったと思います。

まさしくそうなんです。

授業中が、教師と生徒の関係を作る貴重な時間なのは確かなんです。

でも、正直いってそれでは足りない…。

毎日毎日、一クラス45人の中学のクラスを毎時間どんどん交代で担当する。

一人一人に目をやって一人一人に声かけて、一人一人の思いに添った授業がやりたい…なのに、その準備の時間もなければ内容を詰め込まねば遅れをとる。

やらねばならないこと、ばかりがふくれあがり、教師は余裕が全くなく、かんじんの授業はただこなすので精一杯。

そんな余裕のなさに追い詰められて、教師も苦しく生徒も苦しい。

それが今の実態ですね。

悲しいことです。授業で勝負、出来ないのです…生徒との間のことも。

>>「秩序」は国家ににとって必要なのではなく、先に個人の内(精神)に求められるものだと思います。

まさに、その通りだとわたしも思います。

この気持ちをもっとみんなが振り返り、かみしめるようにならないと、教育とはただ机上の物だけになってしまうと思うのです…いやもうすでにそうなりつつあるのですが…早く何とかせねば、という思いがとても大きく育っています、わたしの中で。
[2007/07/20 23:48] URL | コマちゃん [ 編集]
はじめまして。
 はじめまして。

 同感です。
 とくに、生徒自身と向き合う時間が必要なこと、学校の自浄能力を信じること、ペーパーテストでは指導力を判断できないこと、等。

 私は、塾で小学生に算数、中学生に数学を、5年程前まで(15年間)教えていました。その僅かな経験から、私なりの考えを述べてみます。

「向き合う時間」ですが、授業の合間、後に少しあったように思います。学校の部活でのいじめられ体験を話してくれた子もいました。
 ただ、私にとってのその時間は、「授業中」であったと思います。生徒にわかるように説明する、その中で、(教科内容を)理解して欲しい、問題を解けるようになって欲しいと、一人一人の思考の癖を診ながら、願っていました。絶えず生徒に問いを発する、いわば授業そのものが「対話」であったと思います。信頼関係も、そこで生まれると思います。私の(子ども時代の)経験では、学校では一方通行の授業ばかり受けていたように思います。
 よい授業をする、そのための(予習)時間が必要ですね。教師の向上心を信じることが大切だと私も思います。

「学力」とは何か。文章(行間)を読み取る力、論理的思考力、知識、ですね。それはテスト問題を作る側に、先ず求められる能力ですね。問題の一つ一つに、どのような能力を要求しているか、その意図の明確な問題が、良い試験だと思います。そのためにも、研修の時間が必要ですね。その結果として、点数は自ずとついてくるでしょう。

「規範」に従順な「国民」を育てるという意図が政府にあるのかどうか知らないですが(「美しい国」の意味がよくわからないので)、上述の意味での「学力」が高ければ、国への真摯な批判意識も高いはずです。「秩序」は国家ににとって必要なのではなく、先に個人の内(精神)に求められるものだと思います。それは「学力」に内在するはずです。何のための個人の生か。国家のためでないことだけは確かだと思います。

 だらだらと、舌足らずに、書いてしまいました。現場に居ない者の感想では説得力に欠けますが、コマちゃんさんの意思ある文章を読んで、つられてつい、書きました。
 良いブログですね。




[2007/07/15 15:26] URL | vase jaune [ 編集]
おはよー。

だいたいさ、教師や学校を評価するって意識が、マスコミや政治に踊らされてるあほうな親をつけあがらせてるって思うのよね。

教育でもなんでも基本は人間関係だと思う。教師と親が一緒に酒飲めるぐらい仲良かったら、これがいちばん。
そりゃ、教師でも親でも完全な人はいないよ。おかしなことしてしまうときもあるかもしれない。そこをフォローしあって、ともに協力して・・
そーゆう意識を高めることが大切だと思うんだけど。

どうすりゃいいのかねえ。この日本。

なんて、朝からとりとめもないこと語ってしまいましたがな(^^;
[2007/07/10 08:16] URL | イケドン [ 編集]
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教員養成機関教員養成機関(きょういんようせいきかん)とは、小学校・中学校・高等学校の教諭を養成する教育機関を指す。戦前の教員養成機関は、師範学校か、高等師範学校に限られた。前者は、小学校教員の養成が目的であり、後者は、旧制中学校教員の養成が目的であった。
教育問題.com[2007/07/26 10:45]