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「教育」はもうおしまい~生徒指導編1
[2007/02/21 10:16] 教育・学校
さてさて、「教師」であるか、「先生」であるかの違いが大きく出るのが「生徒指導」の分野ではないだろうか。

一般的には「たばこはダメ」とか「髪を染めるのはダメ」とか「ピアスはダメ」なんていうものから細かいものは靴下の膝下の長さとか色とか、スカート丈とか髪の毛の長さとかそんなものまで決まっている学校もある。

この「学校独自の決まり」にしたがって「生徒指導」がなされるんだけど…これほど指導する人によって一貫していないものもないと思う。

制服が決まっていて、たとえばシャツの第1ボタンがとまっているかいないかで厳しく注意する人がいるかと思えば、学校中のガラスを割ってもおおらかに対処する人もいる。

生徒指導の基準というものははっきり言ってない。
あるとしたら、個々の人間の「道徳観」とか「経験」とか「社会観」なのだ。

ところが、学校というのは「担任」がクラスの子どもに対して大きな権限を持っているから、この担任のそういう価値観や規準によって、生徒指導が大きく変わってくる。もうちょっと言えば、担任を見とって学校をまとめる立場の校長や教頭、教務主任によって学校の先生達にどんな声がけがなされるかにも大きく左右される。

また、もう一つ言うと学校を取り巻く社会…特に保護者の意識も大きく関わってくるのだ。

この辺が問題じゃないかと思っている。

「学校」という「社会」に出てきている以上は、「学校」の「決まり」に基づいて生活するのは当たり前だ。それは当然無ければ単に無秩序に各自が好き勝手にやりたい放題で「学ぶ」という行為からはかけ離れている。

たとえば授業中に、他の人の迷惑になるような行為はしない。これは「人の学ぶ権利」を邪魔することは出来ないからだ。だから大声で騒ぐとか、暴れるとかはもってのほかだ。

「時間を守る」ことだって必要だ。
決まっている授業の時間に遅れることは、その子個人の学ぶ権利の放棄であることとともに、他の子の学ぶ気持ちを阻害し、授業の流れを分断する。

そして、人(自分自身も含めて)を傷つけること…体の傷だけでなく、心の傷も…これは絶対にしてはいけないことだ。

「人間として」「社会生活をする上で」必要最低限の決まりは当然出てくる。

これらのことをふまえた上で、学校は成り立っているから、これを守ることは当然なのだ。

では…「必要最低限以外」の部分の決まりはどう指導していったらいいのか。

ここが先生の専門職である力量を発揮するべきところだと思うのに、これに関する指導は教職を取る課程ではほとんど触れられていないように思う。そして、学校内でもこれにつて学び会う機会はほとんど無いように思う。

しかし、この分野はもっともっと大きく変わっていくべき分野だと思う。

学校には、いろいろな年齢層の人間が存在する。
一般的に、管理職の人間はある程度経験を経てきた者がなるからやはり年長の先生がなることが多い。

その管理職を筆頭に、大学出たての新卒の人間までありとあらゆる年齢層が存在する。そこには独身もいれば家族持ちもあり、みんな経験がまちまちなのである。

そしてさらに…「学校で育てるべき存在」の生徒たち。
もう一つは…生徒の親たち。

そして、生徒が生活している、その学校の学区内の人々すべて。

これらの人間が全部「学校」に関わってくると考えると…その年齢層や経験値や物の価値観は多種多様。十人十色どころの話ではない。ひとりにひとつの価値観ならまだ救われようが、それぞれが絡み合ってまた複雑な構造を生み出しているから単純には行かないのだ。

これらのすべての物を総括し、まとめ上げていかねばならないのだから「学校」での価値観がいかに大切で大変であるか想像に難くないのではないかと思う。

これをまとめ上げるのは、学校の力量ひとつにかかってくる。
ところが、その学校の中で実際指導に当たるべき人間たちにも、本当にいろいろな人間がいて「キャパシティー」の差が大きい。

「キャパシティー」には二つの意味合いがある。
ひとつは「能力」。そして「容量」。

そう、この二つともが大きな要素となってくる。

生徒に対して、面と向かって対峙し、そして「ともに学ぶ場」で生活する上での必要なコミュニケーション能力を育てていくことの出来る「能力」。
それから多種多様な生徒や、保護者の価値観に加えて学校の周りの地域の人たちや管理職、周りの先生達のもつさまざまな価値観と自分の価値観を収容できる人間としての心の「容量」。

どちらにもしっかり対処できなければ今の時代の「生徒指導」は出来ない。
(今の時代は「生徒指導」の中に「保護者指導」も含めて考えねばならない。)

そうしたときに、「教師」の立場から下りることの出来ない人は「能力」はあっても「容量」不足になる。そう、自分が「教える立場」だと思っていると、「教えるテクニック」は持っていてもそこからはみ出した生徒には対応できないのだ。

この「容量」を広げるにはどうしたらいいのか。
「先生」の立場だったら、それが出来るのだ。「先に生まれて生きている物」としての自覚を持ち、けれども「生徒」…「生きている同じ人間」という認識に立って生徒と同じ目線で学び、考える姿勢を持っている人はちゃんと生徒の気持ちをくみ取ることが出来るのだ。

「教師」は絶対だ。自分の容量で物を考えてその物差しと決まりとで「教える者」だから「学校の決まりを守らなければ悪い」で済んでしまう。

しかし、「先生」だったら…「この子は、何でこういう行為に出たのだろう?」と、まず考える余裕がある。「先生」も人間で、共に学ぶ者だから、「なぜ?」が先に立つ。それだけでも大きな違いが出る。

「髪の毛を染める」という行為1つとっても、「格好いいから」染めている子と、「何となくやってみた」子と、「自分を変えてみたくて」染めている子では行為の目的も行為に対しての意識も全く違う。

これを単に「決まりでいけないことになっているから」と一緒くたにしてしまっては「指導」にはならないのだ。「こういう行為をするに至った思い」を感じ取ること無しには、「ではこうすればいいのではないか」という方向を示すことは出来ないのだ。

この、生徒の思いをくみ取って話をしていく中でそれに関わってきっといろいろな友だち関係とか家庭環境とか…本当にいろいろな要素が出てくる。この要素を全部ひとりで何とかしようと頑張るのは無理があるから、ある程度専門家に任せた方が良い部分は、専門家に任せる。この辺の見とりと切り替えも、出来なければ大変だ。「自分で何とかしよう」とひとりで走り回って、挙げ句の果てが手に負えなくて収集つかなくなる…という事例もたくさんあるから。

保健室の先生をはじめ、スクールカウンセラーの先生、管理職の先生達、図書館の先生、地域の人、親御さん。時にはクラスの友だち。そして他の教科担当の先生。部活の先生。その子に関わるすべての人間。

みんなで少しずつ、その子の持っている「抱えきれない物」をおろしていってやることが出来たら…それはすばらしいことだ。

その子が変われば、周りも変わる。その子が変われば、その子に関わった物みんなが変わる。それこそが「共に育つ」ことなんだと思う。

「生徒指導」という言葉から受けるのは、「する物」と「される物」という上下関係。しかし、これを「一緒に考え、学んでいく」気持ちに切り替えていったら…もっともっと違う物になっていくのではないか。


今の学校の現状は…それにさく「時間」が少なすぎる。

しかし、日頃からのこういった「先生」の姿勢ひとつで同じ一分もかなり有意義な時間と変わっていくのではないだろうか。



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