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「教育」はもうおしまい~研究授業編
[2007/02/20 15:43] 教育・学校
「教案」と同じように、時間をかけている割には無駄だと思う物。

「研究授業」。

これ、「授業研究」じゃないところがミソですね。
「研究授業」というのは今まで体験してきた物は大方が「研究のための授業」でしたから。

あくまでも「研究のため」であって「生徒のため」になっていないんです。

先生達はたいてい何らかの研究グループに配属され、そして一年間かけて「研究」を勧めます。この研究…今までの体験でしか言えませんが、「研究のための研究」になっていたように思えます。

要するに、「研究会」で「良い成果」を発表するための研究。
まあ、「成果」が出ないと「失敗」と位置づけられてしまうのですから、そしてまた、授業者の実力がない、といわれてしまうのですから、みんな必死なのは仕方ないですけどね。

そして、「良い成果」を出すために、「普段は出来ないような」課題に取り組んだり、「普段とは違った」ことをやろうとする。

結果…たとえばその授業が「成功」したら、授業者および研究主任を初めとするメンバーは賞賛され、「成果が出た」とほめられ、場合によっては論文発表したりどこかで活躍の場を与えられていきます。
「失敗」したら…それが校内だったら、授業者の実力不足、と非難されるかたちになるのかな…結果としては。そして研究主任は面目丸つぶれでその後は…くらい研究会のまとめが続くんですね。これは正直いって、地獄です。

そして、この「成果」が「生徒」に与える影響はというと…今のところは…あまり私は感じていないですね…。そういう「研究授業」にであってこなかったせいかもしれませんし、そういう研究の場に出会えていないだけかもしれませんが。

少なくとも私自身は、「研究授業」をやって、もしくは「研究授業と研究会に参加」して、「これが出来るようになった」とか「こんなことを授業に生かしていこう」と思うようなことは…今までになかったです。悲しいことに。

特に、研究会の規模が大きくなればなるほどそうですね。
「市の指定校」とか「県の指定校」とか「国(文部省…当時は)の指定校」とかみたりなったりしてきましたが、規模が大きくなればなるほど、「普段の授業」とはかけ離れて「気軽に出来ない」ことや「気軽に使えない機材」を使った物が多くなります。

指定校になると、その分の予算も多く配分されますから、機材や教材を購入できるという+の面はあります。だけど、その機材が自分の学校に戻ったときにあるかというと…残念ながら無いことが多いのです。

パソコンしかり、楽器しかり。
研究校の機材や教材は非常に華やかで派手ですし、先端を行っていますが、「自分の学校にはない」のでそれを使った指導は出来ません。結果として「使えない」資料を山ほどもらってきて、「あんな機材があればな~」という悔しさがつのるだけなんですね。

これは「研究のための研究授業」が当たり前になってしまっている弊害だと思います。

成功したら、それを他の人たちの成功にどうつなげていくのか、失敗したら、その失敗をこれからどう生かしていくのか。それが生徒たちへの研究の「還元」であり、それをして初めて「研究」が「授業のための」になっていくのですが…残念ながら、なかなかそこまでには至りません。

仕方ないのです、だって研究授業を見に行っても、初めての子供たちを見とってそれまでに積み重ねてきた物をたった1時間かそこらでみんなで批評しあうんですから、「実のある」時間になるはずはないのです。

正直いって、私はもう「研究授業」はやめたらどうかと思います。
それよりも大切なのは、「授業研究」。

単に単語をひっくり返しただけではないんですよ…「授業」を研究して生徒のために「生かしていく」のが授業研究なんですから。

たとえば…今まで「研究」に費やしてきた膨大な時間と費用をみんな「生徒のため」の時間に充て、教材に使う。そして、「教案」などという物は作成しない。

あるのは「主眼」と「手だて」。そして生徒にあった「教材研究」。

先生は、日頃の授業をそのままする。見に来る人は、それを真剣に見とる。
たとえばそのクラスは、学校の中で「大変」と言われているクラスでもいい。担任が悩んで苦しんでいるクラスでもいい。そういうクラスこそ、たくさんの「学ぶべき物」が転がっているのですから。

見る人は、生徒も先生も、一生懸命なその気持ちを尊重して真剣に見て、「自分だったら、この場面、この生徒にどういう声がけするだろう」という観点で見る。そして「この生徒はなぜ、この先生の言葉にこう反応したのだろう」「この先生は、こういう声がけをしているが、どういう思いと願いがあったのだろう」「このクラスのあり方で、自分たちのクラスに参考になるところはどんなところだろう」という観点で見る。

せっかく1時間かけてみるのですから…その時間、他の生徒は「自習」になるのですから、それくらいの「敬意」を払って授業を見、そして「自分のもの」をつかまなくては無駄な時間になってしまいます。

そして、研究会は…「その授業」の評価や批判だけに止まらず、「実際に自分でこの子とをクラスでやってみたらこうなった」とか「この生徒に違う教科で関わって、こういう言葉がけをしたら意欲的になっているみたいだ」とかいう「成果の発表会」(もちろん、自慢大会じゃありませんよ。)にしていくべきだと思うのです。

だから、研究会は授業の一週間後くらいにしてみたらどうでしょう?
その日各自が学んだものや得た物をしっかりと記録して、それを元にその一週間にやってみたことも記録して、各自がそれを持ち寄って、各クラスの実情と照らし合わせて話し合いを持つ。

「授業クラス」の生徒はやはりその場で初めてであう子どもが多いのですから、その場でそのクラスのあり方を言い合っても無理なのです。その1時間だけですべての子どもを見とることなんて、人間できっこありません。だって、先生も人間で、ひとりひとり物の見方考え方違うんですから。

「授業で見たこと」を、各自、自分の範囲でやってみる、それで初めて「授業を見た」意味があるんです。実際に同じようにやってみたり、同じように悩んでみたりしてはじめてその授業に対しての立場が同じになるんです。

ここにも「共育」の姿勢、「学育」の姿勢を持ち込むべきなんです。

研究会は今まで、たいてい授業者と参観者、という「立場の違い」の中で行われてきました。そこからもう間違いなんだと思います。「評価される物」と「評価する物」との間にはすでに意識のくいちがいが生じてくるのですから。

そうではなく、「同じように毎日生徒と向かいあっている物同士」の会にしなくては、みのりのある物にはならないでしょう。

教案をいくら頑張って書いても、ほとんどの参観の先生は隅から隅までは目を通せません。そして、その授業が終わったらまた見直す先生はほとんどいないでしょう。それに時間をかけ、そしてそういう授業を作り上げることに研究という時間をかけることはやはり無駄だと思うのです。

どうせだったら「生きている生徒」を相手にもっと考える時間が欲しいです。
そして、見た生徒だけでなく、自分の生徒にそれを試してはじめて「成果があるかどうか」がわかるのですから、それから「授業についての研究」をするべき何です。各自、「自分のレポート」を持ち寄って、同じ位置に立って、同じ目線で研究をしなければ、成果は生徒には返らないでしょう。


「研究授業」はもうやめませんか?「授業研究」もっとやりませんか?
私は、授業研究だったらいくらでも時間をかけてしたいと思います。



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