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政治はパフォーマンス?
[2005/08/23 23:51] 生活・自然
昨日の政治に対する毒吐きに、けんさんから次のようなコメントをいただきました。

政治というものは 
様々に異なる世間の人々の利益を調整するという役目だと思うのですね。
絶対に正しい道とか 誰もが幸せになる道は ありえないと思うのです。
楽観的に過ぎるのかもしれませんが
僕は四十数年生きてきて 小泉さんも田中さんも
それぞれ 今までの政治家にはなかった行動をとっておられると思います。
厳しい目で見ていくことも重要だと思いますが
今ほど一般の民衆が政治に影響を持つことができる時代や場所は 
人類史上、そうはなかったと思いますし
明確にご不満があるのであれば、どんな形であれ 
政治に関るべく行動をとればいいと思いますよ。


この件に関して、コメントでのお返事じゃうまく表現できないので、今日の記事として書かせてもらおうと思います。

けんさんのおっしゃることはもっともだと思います。
政治は、おのおのの人々の生活の調整をするため、それを守るために出来る限りの妥協点を見極めて道筋をつけていくものだと思います。

当然、すべての人に良い、なんて状態を望むのは無理でしょう。
そして、これが正しい、のかどうかも誰にも言えることではありません。

ただ、「政治家」になろうとした人は、少なくともそこのところを「何とかしよう」と志している人であろうし、いろいろな知識を持って、選挙で選ばれた代表としてやるべきことはあると思うのです。

私たちが政治に関わろうとすると、一番身近なものは選挙です。
その選挙に対する態度が、こんなものでいいのだろうか、単なる政党同士の戦い、政党の内紛の後始末…そんな感じがしてならないのです。

小泉総理も、田中知事も、確かに、今までにない政治活動をしてきました。それは、良かれ悪しかれ既存の保守的な政治に刺激を与えました。政治に興味を持つ人も、多くなったかもしれません。今回の選挙に興味を持つ人も、増えているように思えます。

けれども、少なくとも政治家であり、さらにその頂点に立つ人の影響力がいかに大きいかという点を、このお二方は甘く見ているのではないかと思えるのです。

小泉総理の訴える、郵政民営化。
官民の格差や、税金の出費を抑えるには、確かに必要な事だと思いますから、その点では反対はしません。けれども、選挙の争点としてそこだけに的を絞るのは、あまりに視野の狭い事ではないでしょうか。

たとえ民営化に賛成だとしても、今のままの「これからの姿」が明確でない状態では、OKと言い切れません。自民党の公約は、良い事を言っているようで実際は明確な規準を示していません。

たとえば、「少子化問題」についても、取り組むとは言っていても実際に何をしていくのかが全く見えません。自民党の掲げた新しい憲法の案を見ると、実はその陰に、「自衛」という名の戦争を公認している点は、恐ろしくもあります。イラクに派遣された自衛隊は、命の危険にさらされながら一向に帰国できる雰囲気もありません。アメリカに頼って寄りかかっているように見られる日本はまた、テロの危険におびえています。

アメリカと仲良くするその一方で、近隣のアジア諸国への方策はどうなっているのでしょう。靖国参拝を「敗戦」の日にしなかったからと言って、それだけでは納得してもらえるものでしょうか。

「自民党をぶっつぶす」のは結構です。ご自分の公約を果たそうとする姿もいいと思います。けれどそのための方策をもっと取る事はできなかったのでしょうか。新聞やニュースで読みとる姿からは、「ごり押し」としか見えないのですがどんなものでしょうか。

長野県民から見た、田中知事。
「脱ダム宣言」を押し立てて、無駄な公共事業をやめようとし、また、知事室を県庁の入り口近くにガラス張りで作って「県民に近づく」姿勢、知事宛のメールを歓迎して、それを県政に取り込もうとした姿、そんな知事が県議会と対立して知事選をやり直しすることになったとき、多くの県民は「古い保守的で密室に隠された」県政が変わる事を期待して応援しました。今までにない政治の姿勢は新しい風を吹き込んでくれたように思いました。

他の県から見たら、「革新的」で「メディア受け」する知事を見て、「長野県はすごい」と思われるかもしれません。けれども、知事が就任してから県民が期待している知事の姿とは違う姿も見えてきました。

その姿や様子は、小泉首相と共通するものがあるように思います。
知事宛のメールが飛躍的に増えたようですが、取り上げられたものはどちらかというと「メディア受け」する事柄ばかりのような気がします。その姿を見ていると、「県を何とかしよう」という気持ちよりも、「自分が活躍している様子をアピールしよう」という気持ちの方が強く感じられてしまうのです。なので、次第に県民の心は離れつつあります。知事に振り回されてついて行かれない人が多いのです。

今回の新党立ち上げも唐突でした。日本を変えていく事は大切かもしれません。でも、県民を振り回して振り落としていながら、「地方の代表」として日本を変える事ができるのでしょうか。正直言って、「またお得意のパフォーマンスか」くらいにしか思えませんでした。なぜなら、そこには方向性が全く見えていないからです。

わたしも、けんさんと同じくらいの年月を生きています。(60年安保の年生まれ)
けれども、はたして今が一番政治が身近になっているのでしょうか。私はそうは思いません。小学生の頃、中学生の頃覚えている佐藤総理とか田中総理とか、総理大臣のアクの強さだったら小泉首相には負けていないと思います。けれども今と違うのは、子供なりに「この人に頑張って欲しい」と思う政治家がいたんですよね。「この党を応援したい」と思う政党があったんです。

それは、「国を背負って立つ」気持ちで政治家というネームプレートをつける人がちゃんといたからだと思うのです。選挙の一票の重みをしっかり感じて、選ばれたものとして代表の役割を果たし、その思いが伝わってきていたからだと思うのです。

今はどうでしょう。選ばれたあと国会でいったい何をしているのか、全く見えてきません。国会中継を見ると、居眠り、欠席、ヤジ。子供に見せられる姿ではありません。「この人にだったら、ぜひ政治を任せたい」と思うだけの主張の出来る人が見つからないし、見えてこないのです。「選挙で勝つ」という言葉は、その最たるものだと思います。

大切なのは、選挙に当選する事ではなく、当選したあとどう自分に科せられた課題を乗り越え、対処していくか、と言う事ではないでしょうか。「自分はこれをやりとげたい」という思いと投票する人の願いが重なればおのずと支持は集まるはずです。勝ち負けにこだわる今の選挙は、「投票したあとは自分の都合いいように出来る」と思われているようで、今ひとつ重みがないのです。与党になるために自民と公明が協力しあっているのを見ても、無所属で当選してから自民に寝返りを打つのを見ても、自分たちの都合のいいように動いているようにしか思えません。はたして、こんな選挙が意味を持つのでしょうか。私たちの意見を反映していると思えますでしょうか。

憲法9条の問題1つとっても、もっとはっきりと自分の意志を選挙で述べられる人は今の政治家にどのくらい居るのでしょう。郵政民営化よりも、「日本」という国がより平和に、より幸せな国になるためには必要な議論だと思うのですが。「少子化」を解決しない事には、年金、税金、教育などの問題が解決しないと思うのですが。なぜ子供が少なくなっているのか、真剣に考えてみていけば、「自分の子供が幸せに生きられる世の中」にして行くにはどうしたら良いのかという議論がまず立つべきだと思うのですが。

さて、私の政治に対する思いを書いてきましたが、けんさんが最後に書かれている「明確にご不満があるのであれば、どんな形であれ政治に関るべく行動をとればいいと思いますよ。」というご意見について、「政治に関わる」ことがどういう行動の事を指すのか良くわからないので、良かったらぜひこれについて教えてください。

私は、政治に関わるという事は、自分のすべきことを考えて自分の役割を果たし毎日の生活を一生懸命に送る事だと思っています。

新聞や本を隅から隅まで読んで、いろいろな事件を知り、いろいろな人の考えを知り、今の自分や自分の家族がどう生きるべきか自分の考えを持ち、仕事に誇りを持って生きる事だと思っています。身近で困っている人がいれば声をかけ、困った事があったら相談し、間違いをしてしまったら素直に謝り、うまくいったら喜び合い、人として真剣に生きる事だと思っています。

その中で、生まれてくる問題を周りの人と力を合わせて乗り越えたり、支え合って解決したりする事。その周りの人とは、家族のみならず地域や職場の人々、ネットでつながる人々、関われるだけの人々の事です。

関わりきれない日本の他の人や、外国の人たちの分、自分では手の届かない人たちの分を自分の選挙で選んだ人に任せるのだと思っています。だから私は選挙は絶対に棄権しません。そして、自分の後に続く子供たち、たとえば自分の子供とか、学校で教える生徒とかには、政治の流れを知らせて子供なりに考えを持ってもらい、選挙権を持った時に棄権せず大切な一票を投票できる人に育てていこうと思っています。

だからこそ、自ら政治家として立った人には、任されたものの重みを感じ、それだけのものを背負ってもらうのが当然だと思っています。わざわざ時間をさいて投票に行くだけの重みのある票をもっと感じ取ってもらいたいのです。

自らのための、パフォーマンスはもう充分です。
もっと近くにおりてきて、一緒に痛みや喜びを感じる政治をして欲しいのです。
自分や、家族や、子孫や、日本の人々、そして世界の人々が本当に幸せになるのだったら痛みも受けましょう。でも、少なくともその痛みはみんなで分かち合っていきたいものだと思います。戦争で前線とは無縁の命令を出すだけの司令官化して欲しくないのです。痛みや喜びを共有し、感謝の心を忘れない、そんな思いを感じさせてくれる人に投票したいと思っています。

これを読んで何か感じる事がある方は、ぜひまたコメントしてください。


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≪「テレビガイド」のおもしろ記事 日本の政治って・・・≫
コメント
余計な意見かもしれないですが、ちょっと意見させてください。

「もっと近くにおりてきて、一緒に痛みや喜びを感じる政治をして欲しいのです。」

要するに、政治家に対する主観的願望ですよね。主観に基づき、理想主義的に政治家を評価するのは自由ですが、現実は理想どおりにはいかないものです。そこで、可及的に主観を排除してこの問題をちょっと科学的に分析したいと思います。

現代の日本のように価値観が多様化した社会における現実の政治の世界は「痛みや喜び」などという感傷的で主観的な考え方ではまとまりませんし、そのような考え方では政党は権力を掌握すること自体ができません。社会を安定化させる方法としての「政治」というのは、そのような感傷的なものではく、客観的・科学的に各利益集団の利益配分および権力関係を考察し決定されるべきものです。

結局、特に19世紀のイギリスのような近代市民社会における民主主義は別として、価値が多様化した複雑な現代大衆社会における民主主義では、理想主義的な思想の政治家は姿を消し、プラグマティックな政治家しか生き残れないといえます。民主主義についてチャーチルはこう言っています。 「民主主義は劣悪な政治システムであるが他のどの政治システムよりはましである」

また、ある政治家の行動が「痛みや喜びを感じる」と認識する基準はなんでしょうか?それは、各個人が主観的に認識し決定されるものです。事実論として一義的に決定されるものではありません。つまり、ある人はある政治家の行動について「痛みや喜び」が感じられないと「感じた」としても、別の人は「痛みや喜び」が感じられるということになる可能性があります。なぜなら、その判断基準(価値観モデル)は人さまざまだからです。したがって、「痛みや喜びを感じる」という概念(基準)は政治家を選ぶ絶対的基準(客観的基準)にはなりえませんし、後に述べるようにその基準は危険なものです。

とはいえ、政治家側から見た場合、政治権力を掌握するための手段としては、有権者とくに浮動票を持っている有権者に「一緒に痛みと喜び」を感じている政治家である、と「思わせる」(認識させる)必要性は高いといえます。つまり、いわゆる「大衆操作」ですね。とすると、仮に社会通念上明らかに大多数の意見として「痛みと喜び」と感じられる行動(政策)をある政治家がとったとしても、有権者の立場からすればそれがどのような目的に基づく大衆操作なのかを見極めなければなりません。しかし、それを認識するのは論理的(科学的)に分析しない限り不可能です。大衆が感傷的に物事を判断する性質をとらえてヒットラーは「大衆は愚かである」といっています。ナチスはこの大衆の科学的分析に基づかないで物事を判断する性質を利用し、一党独裁体制を確立したのは周知の事実です。なので、大衆操作は使い方によってはむしろ国民全体の利益になることもあるのですが、使用する目的によっては危険なものになるわけです。結局、科学的にみれば、自己実現・自己統治を実現するには政治家に感傷的な意見や態度を求めることやそれに基づく政策を要求することは本来ナンセンスであり、合理的にみて政策内容が「自己(有権者)の利益=自己実現・自己統治」(経済的利益などの物質的利益に限らず精神的利益も含みます)にどれだけ貢献するものかという点が重要になるわけです。(この点につき、感傷的に国家的政策形成がなされることを防止するため日本の政治システム=日本国憲法は議院内閣制を採用し、議員に対して自由委任つまり公約に法的には拘束されないという制度を採用しています)

そして、自己の利益に貢献するような理想的な政策を提案している政党なり立候補者なりがいない場合には、消去法的になるべく自己の利益に近いものを選択することで甘んじるか、ないしは自己そのものが政策を決定する立場につくかしかありません。

結局、政党や政治家(国会議員=国民代表)の究極的目的は、理論的には社会の安定および経済の発展だといえます。科学的にみれば「国民の幸福」ではないのです。というのも、「国民」とは誰をいうのか?「幸せ」とはなんなのか?ということが一義的には決まらないからです。そして、社会の安定および経済の発展という二つの要素を満足させるには、大衆の感傷的な「気持ち」を操作する必要はあるものの、権力者そのものが大衆と同じ立場になって感傷的になることはむしろ危険だということになるわけです。たとえば、日露戦争の時代に、野木将軍という人がいました。野木将軍は前線の兵士の立場にたって、前線の兵士と同じ食事を取っていたようです。おそらく、野木将軍は前線の兵士と同じ気持ちで指揮をしていたのでしょう。しかし、合理的(科学的)に考えれば野木将軍の行動に意味はありません。指揮官のなすべきこと(=目的)は、最小の被害で最大の成果(戦果)を挙げることです。前線の兵士と同じ気持ちになることそのものはこの目的達成の方法論を構築する必要条件とはなりません。つまり、前線の兵士の気持ちを客観的に認識することは政治的に軍隊の指揮を高めるための方法論の必要条件にはなるものの、指揮官が前線の兵士と同じ感情状態になることは不必要であるどころか合理的方法論構築の妨げになるともいえます。現に、野木将軍は二百三高地を攻略することはしましたが、戦死者も多数でました。指揮官が前線の兵士と同じ感情条件をもつことは、人道的には(価値論的には)意味があるでしょうが、戦死者が多数出てしまっては政治的(科学的)には意味がありません。このケースで重要なのは、たとえ前線の兵士の気持ちがわからなくとも、最低限の犠牲(できれば戦死者なし)で二百三高地をできるだけ早く攻略することといえます。

今度の選挙に国民の関心が高いといわれるのは、現実的に実行可能な対立する政策が提示されたからでしょう。戦後にこのようなことは無かったといえます。確かに、55年体制の時代はイデオロギー闘争があり、理論的には違いがはっきりしていたともいえます。しかし、社会党や共産党の主張に現実性はありませんでしたし、現実にも単独での政権獲得の意思、つまり社会主義の実現意思は無かったでしょう。また、自由主義を主張する自民党は承知の通り冷戦構造下のいわゆる西側陣営の一員であればよかったわけです。このような状況では、政治権力に直接関係しない大衆は政治的無関心にならざるを得ません。しかし、その冷戦構造も崩壊し新たな価値観の構築が必要になってきています。それは従来のイデオロギー闘争とは異質のものです。このような状況で新たな価値観を構築するのは難しいことです。それに、日本のこのような未成熟な民主主義の状況でラディカルでインパクトのある明確な価値観の提示はドイツ型ファシズムに発展する危険もあります。そのような状況の中、内容が良いか悪いかは別にして、今回の選挙では郵政民営化という問題を主な争点に現実に実現可能な相対立する政策が提示されています。少なくとも、これは、新たな価値観の提示およびその選択の自由という意味においては日本の民主主義にとって進歩と評価できないことはないと考えられます。

とはいえ、改革派といわれる小泉政権も改革すなわち旧来の古い制度をかなりの部分破壊することは主張していても、破壊したあとどうするのかという明確なビジョンは主張していません。その点では、問題があるとはいえます。また、対立軸となる反対派も同様に明確なビジョンはありません。でも、それは、冷戦・イデオロギー闘争が終焉したのちの新たな価値観の模索が続いている現状を前提にプレッシャーグループ中心の日本の政治システムにおいて政党が政権獲得という目的達成をするには仕方がないともいえますが・・

結局、「女王の教室」のコメントでも書き込みましたが、自己実現・自己統治、教育など事実論たるある目的を達成するには科学的(合理的)に分析し判断するのがもっとも確実なのです。とはいえ、認識論的に考えれば人間の認識にはおのずと限界があるため、科学的に分析することが絶対確実ということはありません(これも皮肉なことに科学的に導かれます)。ときどき科学は万能であるという意見も耳にしますが、それは理想主義的(形而上学的)な意味、つまり概念上の理論的な「科学」という意味でしょう。しかし、プラグマティックにみれば、現実的には科学は道具であり道具は理想通りには作れません。それは、真球というのは理論的に認識可能だとしても現実には絶対作ることはできないのと同じです。とどのつまり、科学的認識は主観的に認識(各個人が経験則により認識)される事実(方法論)よりは確実性が高い(目的達成の確率が高い)ということです。なので、科学絶対主義に陥ることは危険ですが、その一方で科学的思考は重要なものでしょう。日本では戦前から「科学論」ではなく、「精神論」で社会が動いてきた傾向が高いといえます。それはたとえば、政治でいえば庶民の「気持ち」であり、教育でいえば「誠実に」生徒にぶつかる、などです。でも、庶民の「気持ち」がなぜ重要なのでしょうか?なぜ、「誠実に」なのでしょうか?また「気持ち」や「誠実」とは何なのでしょうか?それを解明しない限り、最終目的達成の確率は落ちるし、場合によっては目的に反する結果が発生するかもしれません。特に、グローバル化した社会構造の中で新たな価値観が必要とされる現代日本においては科学論を主眼にした考え方の重要性は高まっているといえるでしょう。

最後に、「政治に関わる」ということに関してですが、あくまで一般論ですが、「政治」というのは「政治権力=立法・行政の政策決定過程」(狭義の政治)といえるでしょう。したがって、「政治に関わる」というのは、「政策形成に影響を与える行為を行う」と言い換えられます。ちなみに、政策形成に影響を与える行為とは、政治家になって法律(条例)を議決するとかそれを執行する立場(行政)につくなど直接的なものには限らず、立法(政治家)・行政に圧力をかけることによって法律の改変・新設ないしは現行の法律および命令の執行の変更(解釈の変更)に影響を与える行為を含みます。なので、この意味で厳密に考えた場合には、自己の選挙の投票行動そのものがプレッシャーグループを通してその後の立法・行政過程に反映されるなどの場合以外(投票した政治家の心理に直接影響を与えない場合)は含まれないことになります。

長々とした書き込み失礼しました。
[2005/08/25 12:10] URL | redsuns [ 編集]
>redsunsさん

ご意見ありがとうございました。全部しっかりと読ませていただきました。

ただ、おっしゃっている事が、私の主眼としている論点とはずれていると思いますので、深くは掘り下げないようにしたいと思います。

一点気になったことだけ。

政治の論議をする場合に、戦争の話を持ってこられたのは非常に違和感を覚えました。私は「司令官化」してほしくないと言っただけで、政治家に同じことをしてほしくないと言っただけです。戦争の指揮官と同じことをする、ましてや戦争時中の事を持ち出す事は非常にいやな思いをしました。戦争は起こしてはならない事であり、その事例を「痛みを分かち合う」例として持ち出された事は不適切だと思います。

別に、痛みを感じる政治というのは、一緒に行動し、同じ釜の飯を食いなさい、と言っているわけではありません。少なくとも、現在の天下りとか官民の癒着とかの原因ともなる事だと思いますし。

そうではなく、政治家はその立場にあぐらをかくことなく、もっとしっかりと現実を内面まで見据えてほしいと言う事です。

教育の事を考えていくなら、大学の偉い人やお役所の人や研究所の人ばかりでなく、現場の教師も加えて声を聞いていくべきだと思うのです。

庶民の生活の事を言うならば、中央から地方へ、ではなく、もっと地方から中央への流れを深めていくべきだと思います。

それをしないのが現在の政治のあり方であり、「専業主婦は怠けている」とか「子供を産まない女性などはとんでもない」などというそれこそ「科学的根拠を持たない」発言が出てくるゆえんではないでしょうか。

女王の教室のようなドラマが賛否両論出ていますが、はっきり言ってあれだけ適切に今の教育や家庭や子供たちや社会の問題を鋭くえぐっているドラマは今までなかったと思います。こういう現実を、ドラマからでなく、本来は日本を背負って立っていく方々から提起されるべきものかと私は思うのですが。

科学的な論理付けは確かに必要ですし、それは信憑性もあります。しかし、科学は万能ではなく、研究の視点が違ったり、分析するモデルの選出の仕方を誤ったら「理論づけられた」過ちが認められるようになってしまいます。そういう的確な判断が出来る人を選挙で選ぶべきであり、少なくとも、「郵政民営化」だけに踊らされて投票する事は非常に恐ろしい事だと私は思っています。

最後に。
ここは、単なる個人のブログですので、いろいろな方が見にいらっしゃいます。専門用語とか、カタカナ言葉とかの多用は、出来れば控えていただいてもう少しかみ砕いた言葉で書いていただければ有り難いです。
[2005/08/25 20:35] URL | コマちゃん [ 編集]
>「戦争の指揮官と同じことをする、ましてや戦争時中の事を持ち出す事は非常にいやな思いをしました。」

これは失礼しました。私はいわゆる政治の延長線上の話として意図的に軍隊の例を持ち出したのではなく、単に一般論として目的達成の確実な手段を構築する場合、一般的に理解されている常識的な概念で感覚的に判断することが実は誤っていることが多いという事例としてわかりやすいと考えて提示してみただけです。なので、戦争や軍隊を肯定しているものでもありません。

私が主張しているのは、誰もが当たり前と思っている事(概念)を前提に感覚的に(理性的=科学的ではなく)物事を判断することは、誤った事実認識をもつことが多いということです。要するに、自分が「~だと思った」ことを「なぜ自分はそう思ったのだろう?また、思ったことが本当の真実なのだろうか?」「それに真実とは何なのだろうか?」と疑うことも重要だということです。このことはいわゆる政治問題だけでなくあらゆる事柄(極論としてたとえば恋愛についても)、あらゆる人についていえます。たとえば、政治問題の一例としては、一般的には政治権力の側に付く人がどのような人が理想なのか?と聞けば「庶民の痛みわかる政治家」「庶民の気持ちがわかる官僚」が良い、という意見が当たり前のように出てきます。確かに、その通りに聞こえます。でも、なぜ、そう思うのでしょうか?それは、自分の理想に近い社会にしてもらいたいからです。では、本当に「庶民の痛みがわかる政治家」「庶民の気持ちがわかる官僚」が自分の理想に近い社会を作ってくれるのでしょうか?また、そもそもその政治家・官僚が庶民の痛みや気持ちがわかっているかを本当に知ることができるのでしょうか?もしかしたら、それらは結局、「~のように見える」「~のような感じがする」などの感覚的に得られた情報を根拠に認識された幻想なのではないのか?そして、それがもし幻想だとしたらその幻想に基づきある行動をとったら予想したような結果が本当に発生するのだろうか?

また、余計なことかもしれませんが、「戦争は起こしてはならない」という価値判断をお持ちのようですが、ならばその目的を達成するためには戦争ならびに軍隊の研究というのは必要なことではないでしょうか。確かに平和を追及するなら、戦争のことを否定・反対さえすれば良いと感覚的には思います。しかし、ほんとうにそうでしょうか? 平和研究というのは、平和とは何か?ということを考えるのでなく、戦争・軍隊を研究することではないでしょうか。違った見方をすれば、戦争を起こそうと思えば、抽象的な「平和」ということだけを考え、戦争のことを考えなければ良いのです。戦争から逃げれば逃げるほど逆に戦争は近寄ってきます。というのも、そもそも人間には「欲」があり「感情」に流される傾向および感覚的判断を優先する傾向(不変的法則)があるからです。これはワイマール憲法下にあったドイツのその後のナチス化や日本においても大正時代には平和主義的傾向にあったにもかかわらずその後軍事政権が誕生するプロセスがそれを示しているといえるのではないでしょうか。だからこそ、感情を排した理性的(科学的)な認識方法が必要なわけです。戦争・軍隊など感覚的(感情的)にはたとえ不要ないしは不快と思われるのものでも、平和という目的達成に必要であれば分析しそのメカニズムを理解する必要があるといえるのではないでしょうか。戦争というのは極限状況であるためそこで起きている政治現象から収集できる情報には平和を維持するための政治に使える有用な情報を多く見つけることができます。ある意味情報の宝庫ともいえるのではないでしょうか。野木将軍の事例はその一例だったのですがご理解いただけなかったようで残念です。

>「教育の事を考えていくなら、大学の偉い人やお役所の人や研究所の人ばかりでなく、現場の教師も加えて声を聞いていくべきだと思うのです。」

それは当然ですね。教育システムに問題が生じておりそれを改善するという目的を達成するためにシステムの改善をするのなら、当然教育に関するすべての情報(教師の声など)を入手しなければ、適切な改善法はみつからないでしょう。科学は情報の収集・分析ということを基礎にした経験的実証的なものです。なので、教育システムの改善を目的としながら現場の情報を無視するような研究機関があったのならそれはおよそ科学者の集団とはいえないでしょう。

>「こういう現実を、ドラマからでなく、本来は日本を背負って立っていく方々から提起されるべきものかと私は思うのですが。」

その通りだと思います。しかし、その現実がわかっていてもそれを改善することはかなり難しいことでしょう。というのも、いわゆる教育学校問題というのは教育システムだけに問題があるのではなく、教師や親の質的問題など社会全体の問題とリンクして(絡んで)いるからです。具体的には、自由など社会安定化に必要な根本的価値概念の一元化の必要性(たとえば自由とは何かという共通概念の共有)、社会安定化の要素となり得る宗教不在の現状での規範の定着方法(法律の基になっている道徳、倫理などの国民への擦りこみ)、など非常に厄介な問題があります。なので、やっかいな問題はとりあえず先送りという考え方に傾くのでしょう。しかし、放っておけばいずれ取り返しの付かないことになる可能性もありますから政治家はその問題に真剣に取り組むべきですね。


>『「専業主婦は怠けている」とか「子供を産まない女性などはとんでもない」などというそれこそ「科学的根拠を持たない」発言が出てくるゆえんではないでしょうか』

どうも「科学」という言葉の定義というか意味が異なって認識されているようでが・・
わたしが言っている「科学」というのは、要するに「感覚」に対する「理性」であり、より具体的にいえば理性的認識方法としての道具という意味です。わかりやすく簡単に説明するのは難しいのですが、認識しようとしている対象はある現象(事実論)に限られ、社会法則および自然法則を基にその対象である現象を客観的に認識するというようなことです。よって、価値的、たとえば、「あの政治家は良い人なのか?」「戦争は悪いことか?」などのそれぞれの人の主観によって形成される価値的評価の分析は「科学」の対象にはなり得ません。
なので、「専業主婦は怠けている」「子供を産まない女性などはとんでもない」というのは事実(現象)に対する価値的な評価であり事実論そのものに関するものではないため、そもそもそれらの発言内容そのものに科学的根拠があるのか無いのかの問い(命題)に答えられません(文章としての意味がありません)。もっとも、話はちょっとずれますが、たとえば「専業主婦は怠けている」とか「子供を産まない女性などはとんでもない」と「発言する」ことで主婦を働かせるないしは子供を生ませるという目的を達成させる、つまりこれらの発言を手段に使うということであれば、その発言をすることが主婦を働かせるないしは子供を生ませるという目的達成の手段性として合理的かどうかの判断は可能となります。もしかしてこの後者の意味ですか?

>科学は万能ではなく、研究の視点が違ったり、分析するモデルの選出の仕方を誤ったら「理論づけられた」過ちが認められるようになってしまいます

科学は所詮道具です。なので、たとえその道具が有用なものだとしてもそれを使う人間が使い方を誤れば無用の長物にもなるし、害にもなります。しかし、その一方、科学という道具がなければ「感覚」に頼るしかなくなります。重要な問題を感覚で判断するのも危険なことです。とどのつまりは道具を使う人間の問題に帰着されますね。ところで、本論とは関係ないのですが、「研究の視点が違う」「分析するモデルの選出の仕方を誤ったら」というのはどういう意味でしょうか? モデルの選出の仕方の誤りというのは、理論化(モデル化)された法則性をその法則性が適用できない現象の説明に無理に使用する、すなわち詭弁ということですか?「研究の視点が違う」という点についてはまったくイメージできないのですが・・

>「専門用語とか、カタカナ言葉とかの多用は、出来れば控えていただいてもう少しかみ砕いた言葉で書いていただければ有り難いです。」

なるべくわかりやすいように表現しているのですが、表現力不足のためご迷惑を掛けているようです。読みにくい点はご容赦ください。また、論点がずれているあるいは書き込み内容自体が不適切と判断されるようでしたら今後の書き込みは控えます。失礼しました。
[2005/08/26 20:37] URL | redsuns [ 編集]
>redsunsさん

えーとですね、私も議論は根本的に好きです。いろいろな方の忌憚ない意見を聞く事は「独りよがり」の理解に陥らないためには必要な事です。なので迷惑だとは思わないでください。

「論点が違う」といった理由についてお答えします。

「女王の教室」へのコメントを読んだ時にも思ったのですが、正直言って、私の思っている事と、いただいたコメントから感じられるあなたの根本的な気持ちには、同じものを感じているんです。ただ、私の述べている感想や意見は、あくまでも「個人の自由なブログでのつぶやき」でありますし、主観が大いに入っています。これをとって「科学的であるべき」とおっしゃっているのでしょうと思われます。

理性的にものを判断する事は必要ですし、それを持って「科学的に」と述べられている事もよくわかります。私としても、もしも新聞や本として出版されるある程度大衆に影響を与えるメディアに記述するならば「科学的」な根拠に基づき理性的に判断して文章を書くでしょう。その点ではredsunsさんのおっしゃるとおりの考えですし、いままでいただいたコメントに対しても何ら異議をとなえる事はないんですよ。「同じ意見です」と言う事です。

ただ、さっきも書きましたがこれは私の「個人的な意見の垂れ流し」であり、多分に私見が入っていて、ゆえに「理性的」ではない意見もたくさんあるんです。その点をふまえた上でご意見をいただけると、ありがたいかなと思うのです。つまり、私が一番いいたい事に対してご意見をいただいているのではなく、違うところを掘り起こされているので、「くいちがい」感があり、議論になりにくいんですね。つまり根本的にはredsunsさんと同じ考えをもっていますから、同じ地点に立って違う方向を向いている状態だと感じるのです。もしくは、同じ気持ちを違う言葉を使って表現している感じというのでしょうか。ゆえに、「論点が違う」と書いたのです。

ちなみに、
>「専業主婦は怠けている」とか「子供を産まない女性などはとんでもない」と「発言する」ことで主婦を働かせるないしは子供を生ませるという目的を達成させる、つまりこれらの発言を手段に使うということであれば、その発言をすることが主婦を働かせるないしは子供を生ませるという目的達成の手段性として合理的かどうかの判断は可能となります。

と言う点についてですが、その通りです。少なくとも、「税制について考える」場において、「専業主婦は怠けている」と言う論点(科学的な根拠はないと思われる)をもって発言するという行動は、感情論であって意味のないものであり、大衆に影響を及ぼす会議の場にあっては不適切だと思われたからここで取り上げたのです。

それから、戦争についてもただ反戦を述べているつもりはありません。redsunsさんは、私のそう願う気持ちを感じ取って(これは気持ち的、つまりredsunsさんの感覚的なとらえですよね)それについて掘り下げられたと思うのですが、それについてちゃんと語るならばそれなりの議論がまた必要だと思うのです。そういう点で「すれ違いだな」って思うんですよ。

いつもコメントをありがとうございます。感謝しています。これからもぜひお待ちしていますので、redsunsさんの視点でのご意見、お寄せください。
[2005/08/28 10:21] URL | コマちゃん [ 編集]
返信ありがとうございます。

>「その点ではredsunsさんのおっしゃるとおりの考えですし、いままでいただいたコメントに対しても何ら異議をとなえる事はないんですよ。「同じ意見です」と言う事です。」

なるほど、よくわかりました。

>「つまり、私が一番いいたい事に対してご意見をいただいているのではなく、違うところを掘り起こされているので、「くいちがい」感があり、議論になりにくいんですね」

ドラマの感想などは、人それぞれの価値観に基づいた感想(感覚的意見)を述べ合えば良いと思います。しかし、政治の問題をテーマに話し合う(議論)となると、①誰(どのような価値観)の立場で②どのような利益を追求し(どのような目的)、③その利益追求(目的)達成の手段は合理的か?(科学的根拠があるか?)、というこれら少なくとも3点を明確にしないと議論にはなりませんし(暗黙の了解があればいちいち明確にする必要はないですが)、その中でも議論が可能なのは③についてだけでしょう。一般的には、それらを明確にしないで議論をすれば結局水掛け論になるだけです(感情的に嫌な思いをするだけです)。なので、その点を明らかにした方が良いということを提案したのです。ただ、そんなものには縛られずに自分の意見を言い合うという議論の仕方もあります(逆に、この点につき議論は論理的に行うものであるからそんな議論なんてないと言い切るのは詭弁です。なぜなら議論の定義いかんで議論であるかないかの結論が異なるからです)。確かに、そのときには堅苦しい科学論は不要ですね。

>『「専業主婦は怠けている」と言う論点(科学的な根拠はないと思われる)をもって発言するという行動は、感情論であって意味のないものであり、大衆に影響を及ぼす会議の場にあっては不適切だと思われたからここで取り上げたのです。』

わかりました。しかしそれにしても、なぜ「専業主婦は怠けている」というような発言をしたのでしょうかね?単に愚かなのか?それとも、何か目的があるのか?(愚かな可能性が高いですが・・) 大衆心理を前提に考えれば、そのような発言をしたら増税(控除廃止)に反発する政治的な力が働く可能性が極めて高いですよね。現実的にも政府税調が主張するいわゆるサラリーマン増税に賛成する政党はありませんしね。こんなことは科学的に分析するまでもなく経験則により感覚的に認識できて当たり前といえますよね。もし、その感覚が麻痺しているということになると、かなり問題です(これもその可能性が極めて高いですが・・)。

>「それから、戦争についてもただ反戦を述べているつもりはありません。redsunsさんは、私のそう願う気持ちを感じ取って(これは気持ち的、つまりredsunsさんの感覚的なとらえですよね)」

感じ取ったといえばそういうことにもなります。しかし、感覚的な捉え方かというとそうでもありません。つまり、厳密にいえば、私の認識プロセスは「戦争時中の事を持ち出す事は非常にいやな思いをしました」「戦争は起こしてはならない事であり」「不適切」という言語表現からそれらを矛盾無く説明するための前提事実として「戦争を起こすべきではない」という価値観があるということを論理的に推理(厳密というか専門的にはいえば推測)したのです。「感覚的」というのはいわゆる思い付きそのもの、つまり論理的(理性的)ではないということですので、その意味では感覚的に得られた認識ではありません。しかし、「戦争を起こすべきではない」という価値観をもっている人の立場にたったら相手はどのような気持ちになるのか(どのような感情状態になるのか)ということを共感するのは感覚的な認識です。まぁ、このような細かい分析はどうでも良いことかもしれないですけどね。

別に感覚的な認識をすることは悪いことではないです。とどのつまり、科学理論(仮説)もその発端は直感といわれている感覚から始まります。なので、むしろ感覚というのは重要なものでしょう。しかし、直感などの感覚だけでは正確に事実(現象および方法論)を認識することはできないということですね。

>「これからもぜひお待ちしていますので、redsunsさんの視点でのご意見、お寄せください。」

ありがとうございます。
一般的に「科学」とか「論理」とかを強調し主張すると、コンピューターのような人間なのではないかと思われる傾向があります。しかし、実は私はすごく感傷的・感情的でもあります。恥ずかしながら女王の教室・第6回を見た時には涙が出てしまいました。しかし、その一方、感情的になり違った価値観を一方的に否定したり、権威を無意味に振り回したり、感情に流されたり思いつきで考えたつもりになって行動したりすることは避けたいとも思っています。なので、価値と事実を峻別し事実論には感情を一切はさまず「科学」や「論理」という道具を使い客観的に分析することを常に心がけるべきと思っています。

そうはいっても、価値と事実の峻別というのはそう簡単にいきません。もし、「そんなものは簡単で当たり前だ」と思ったらその時点ですでに間違いを犯していることになってしまいます。たとえば犯罪事件やドラマで「~が盗んだのは事実だ」とよく言われますが、「盗んだ」というのは本当に事実(概念)なのでしょうか?それはある人が下した価値判断に基づいて盗んだといわれる犯人が行った行動(現象)を評価しているに過ぎないはずです。つまり、事実ではなく価値的評価であるということになるわけです。それから、これはある程度わかりやすいのですが「あの戦争は侵略戦争だったのは事実だ」というのも同様ですね。これも事実ではありません。価値的評価です。ということになると、事実というものを認識するには限りなく「盗む」とか「侵略」「戦争」などの価値概念を排除する必要があるわけです。しかし、それをいくら行っても言語の性質からすれば厳密に排除することはできません。では、事実という概念そのものが無意味なのでしょうか?それもおかしいことです。結局、事実を使用する目的(事実という情報の認識がなぜ必要なのか)から遡って何が事実と評価(ここでの評価は価値的評価ではなく方法論的評価=手段として適切かという評価です)すべきであるかで決定される以外には方法はないと考えられます(プラグマティズム的解釈)。先の事例でいえば、社会安定化という目的達成のために、「盗む」(窃盗罪の構成要件に該当する行為)という行為を禁止させるという前提で考えた時に解釈される「盗む」という概念は、社会安定化という目的達成をするという観点からは、「盗む」という事実であるということになるわけです。つまり、わかりやすくいえば司法(裁判所)で「盗んだ」と認定されれば、それは「盗んだ」ことは事実である、となるわけです(事実といっても「盗む」という解釈についての学説理論は多数存在し判例理論が絶対的に正しいということではありません。あくまでも、手段としての事実と評価できるという意味です)。その一方、目的も無くただ「盗んだ」と考える(思う=感じる)のはその人の主観に基づく価値的評価であり事実認識ではないということになります。また、自然科学でいえば、化学で使われる原子モデルなんかそうですよね。つまり、物質の構造が原子や分子という形をしているなんて誰も実際に確認してないですよね(仮にそれを誰かが見たとしてもそれをもって真実とも確定できませんが)。要するに、原子モデルが事実(真実)かどうかは良くわからないわけです(というよりも永久に認識不能)。しかし、化学で薬品を作ったりするには別にそれが真実でなくとも原子モデルを前提に薬を作れればそれで良いわけです。となれば、その意味で原子モデルは事実ということになります。ちょっと話が難しくなりました。すみません。とにかく、このように科学的に考える場合の前提としての事実認識というのはそうそう簡単にはできないということですね。ちょっと油断すると科学的や論理的と勘違いする可能性があるということです。だから議論(弁証法的進化)することが重要だということにもなります。このように科学的に分析する要素としての事実というのは非常に厄介ですが、その一方、感覚的(経験則的)に認識できるような範囲の問題ならそこまでの事実と価値の峻別は必要ないですけどね。もっとも、先の「専業主婦は怠けている」というような発言のように感覚が狂っていては問題ですが・・

私は子供のころ「アメリカは良い国か?」という問いに明確に答えられないのはいまだ人間の能力が低いから知りえないのであって、答えは必ずあると信じていました。しかし、ご承知の通りこれに画一的な答えはありません。命題とはいえないからです。ここで、もしこれにある画一的な答えが出たと信じて行動したらどうなるのか?予想した結果が発生するとはいえないでしょう。また、多くの人がこれに画一的な答えがあると信じたら極論としては戦争につながるかもしれません。このことで、言語というのをあいまいに使い、エセ論理が論理的で正しいと思い込むのは危険なことであると私は反省しました。しかし、何があいまいなものでなく、何が論理的や科学的なのでしょうか。それは、徹底的に疑うことなしには見出せないということです。私のデカルト的な懐疑主義(とにかく自分の考えを含めすべてを疑う)はこの時に始まったともいえます。また、誰にもあることでしょうが、私が子供の時、女王の教室の和美と同じように友人などに勘違いされたことが多々ありました。でも、なぜ、相手はこちらの真意が理解できないのでしょうか?それは、相手がどういう人なのか。あるいは何を考えているのかということを感覚的に判断したため、コミュニケーションの方法が間違っていたからです。そのときに思いました。正確に相手を知るにはどうしたらよいのだろうか?また、コミュニケーションをうまくとる方法は何なのだろうか? これも、感覚的に判断するのではなく、客観的(科学的)に相手やコミュニケーションの方法を認識するというところに答えがあったのです。

なんか、単なる愚痴というか自分のプログのようになってしまいました。申し訳ありません。
なお、「プレッシャーグループ(圧力団体)」「認識論」「形而上学」「プラグマティズム」「懐疑主義」「推理」「経験則」「命題」「弁証法的進化」「構成要件」などの専門用語については興味のある方は検索して調べてみてください。わかりやすく解説しているサイトも結構あります。
[2005/08/29 21:00] URL | redsuns [ 編集]
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