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  2010年07月  

             
「宮崎の悲劇」は人ごとではない。
[2010/07/18 11:18] ひとりごと
きのう、Twitterでわたしの宮崎の古くからの親友が東国原知事のつぶやきをリツイート(RT)していた。

RT @higashitiji: 今日の読売新聞の社説「一貫性欠いた宮崎県の対応」については、思うところをブログに書かせて頂きました。

ただ、それだけだったけど、それをわたしもすぐにRTした。
わたしの親友は宮崎で、ずっと宮崎の悲劇の事実を感じてきた人。
その人が、何もいわずにただRTしていたこの東国原知事のつぶやきは、彼女ら県民の思いが重なっているんだろう。

東国原知事のブログは、読んでいるうちに涙が出てくるものだった。

同情ではない。
哀れみでもない。

「共感」。
人ごとではないその想いを真剣に受けとめなくちゃならない、そしてこれをまたみんなで本気で考えるべきだ、という「衝動」に近いもの。

最初にまず、「報道」されている文字の情報では伝えきれない事実に対する「追加情報」である、と前置きされてはじまるその文面。

今回の殺処分に向かうまでの宮崎の受けた言葉、なされてきたこと。
そしてここに至るまでのもろもろの出来事。

情報や文は、そのままうのみにしない方がいい。
ニュースも、Web上の記事も、ブログもテレビもラジオも。
それはきちんと事実を確認して、各自が正しい情報だと確認して行くものである。

だけれども、そういう「確認」作業をしなくても伝わるときがある。
その文を書いた人の想いが、きちんと伝わる「力」を持った文章は確かにある。

それをこの東国原知事のブログから感じた。
そして、その感じは、わたし自身がずっと感じてきた、経験してきたもろもろの事象に重なった。

だから、涙がでた。
本気で考えなくちゃいけない、本気で受けとめなくちゃいけない。
そう感じて涙がでた。

わたし自身も、「宮崎の悲劇」を直接見たわけでも感じたわけでもない。
だから、わたしはこの東国原知事の訴えを取り上げて、どうこう言うことは出来ない。

ただ、この部分は自らの想いと重なって、そして今、日本の社会のあちこちで起こっている物事の本質を考えるために必要な想いだと感じて、受けとめてちゃんと伝えるべき想いだと思うからここに引用させていただこうと思う。

とにかく、リングワクチンは駄目である。絶対にやってはいけない。その為には、そうならないような万全の態勢を取る・備える必要がある。その為に、今回の事例を教訓にし、より良い法整備や防疫指針を早急に構築する必要がある。

「そうならないような万全の体制をとる・備える必要がある」

この一言の重みを、私たちは真剣に受けとめる必要があると思う。
今回の家畜の問題。殺されていったたくさんの命の重み。
畜産農家の人たちの痛み。失ったものの大きさ。
地域の人たちの受けた心ない言葉による傷。
宮崎の人だから、というだけで県外から宿泊を断られた、などという話まで聞く。
子供たちは学校の行事さえも中止になり。
今回の突然起こったこの悲劇の渦に巻き込まれたことで宮崎の人々の受けた重さは……計り知れないものがある。

知事のこの一言は、その人々の想いの総意であるとわたしは思う。

そして、同じ言葉をわたしも伝えたい。

今、自らの命を絶つ人が絶えない。
この事実について、いまだに本気で取り組んでいると思えない国の状況にも重なる。

本気でこういう事実に向かうのだったら、「予防」を真剣に考えるべきだとわたしは訴えた。
けれど、その叫びを本気で受けとめる人はいなかった。

わたしは、かつてうつ病になって学校の教師を辞めた。
やめたくなかった。学校の先生は、わたしの生きがいだった。

自らの息子が不登校になり、わたしがその頃持っていた生徒たちの多くもまた、心を病んで学校に行かれない生徒たちだった。
この事実を受けとめて、わたしは「子供たちの居場所」になれる学校であるべきだし、それを取り戻すべきだ、と思って自分に出来ることをがんばってみた。

だけれど、それは伝わらなかった。
すくなくとも、周りには理解しにくいことだったんだろう。

自分の目の前には悩んで苦しんでいる子供たちがいる。
そのために何が出来るのだろう?
そう思っていろいろ勉強し、いろいろ見、聴きして出来ることをやろうと思った。

けれど、「学校」という組織を維持するためにはわたしの行動は必ずしも歓迎されるものではなかった。
そして、わたし自身が鬱におちいった。

ようやく自らのうつとの闘病をおえて仕事に戻ろうとしたとき。
与えられた「研修」という課題は、まったくそういう事実をふまえたものではなかった。
おきまりの課題をおきまりに無難にこなせば、わたしは教職に戻れたのかもしれない。

でも、それはしたくなかった。
そして、たくさんの同じように真剣に生徒を思うがゆえに悩み苦しんでいる人たちのために、「予防」することが必要で、そのことを真剣に考えて欲しい、と訴えた。

………通じなかった。教職に戻れず、また、少しでも予防のために役立てば、とやったことも単なる「人の批判」ととらえられてわたしは非難された。その非難の声が、家族にまで及んだことを知った私は、もう黙るしかなかった。

家族を人質にとられたら。
自分の想いだけで、家族を傷つけるわけにはいかないから………。

「本当のこと」を伝えるというのがいかに困難なのか。
「本当に大切なこと」を伝えるのがどんなに難しいことなのか。

この時に思った。
今でもそれは、わたし自身の心に深い傷となって残っている。

だけど、わたしは、伝えることはやめようとは思わない。
これは必要なことだから。
実際に「そういう想い」や「苦しい体験」をしたものでなくては伝えられないことがある。

自らの命を絶つ人が、もうこれ以上出ないためには。
学校に行きたくてたまらないのに、行くことが出来ない居場所のない子供をもう出さないためには……。

とにかくこういう想いを伝えて知ってもらい、それをわかった人たちで「そうならない手だて」……「そうならない社会」を作っていくしかないからだ。

ちっぽけなわたしの、こんな小さなつぶやきなどはまったくなんの影響を持たないことも充分にわかっている。
大海原の上で叫んでも、どこにも届かないこともわかっている。

だけど、黙っていたら何も起こらないし、誰にも伝わらない。
のどがかれても叫んでいれば、かすかに気配は感じてもらえるかもしれない。

自分に出来ること、自分が伝えられることは、わたしはこれからも続けていきたい。

東国原知事の叫びもまた、そんな自分自身の想いに重なった。
そしてその知事の叫びを受けとめた宮崎の親友が、Twitterの上でRTという行動を起こした、その想いを受けとめたいと思った。

今回のこの叫びを、きちんと受けとめて繋げたい。
つながって欲しい。

そのために何が出来るのか。

たとえば……今回の宮崎の悲劇を受けて、足りない「タオル集め」に奔走した友だちがいる。
そうして起こった動きを受けて、「協力」する人がいる。
Webのクリック募金を毎日続けている人がいる。
Twitterなどでそれを伝え続ける人もいる。

そんな風に直接できることを何かやる、そういう形もあると思う。

直接何かが出来ない人もいる。
それはそれで、この事実をちゃんと受けとめること、それも大切な「出来ること」。
そしてそれを何らかの形で伝えること、繋げること、それも大切な「出来ること」。

一番大事なことは……。

「宮崎の悲劇」を「人ごと」にしてしまわないこと。

対岸の火事として、遠くの出来事のひとつとして流してしまわないこと。
ここから感じたこと、受けとめたこと、それを自分自身の中に残し、この先の生き方やあり方に何らかの形でいかしていくこと………。

それが、私たちに出来ることであり、していかなくてはならないことなんじゃないか、とそう思う。

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東国原知事のブログは、こちら。→「東国原英夫オフィシャルブログ そのまんま日記 「読売新聞社説について」


ちなみに。
このやりとりに関わると思われるだろう山田農林水産省の大臣の答弁がここに載っている。

山田農林水産大臣臨時記者会見概要

東国原知事のブログの訴えと山田大臣の答弁と。
どちらをどう受けとめるかはまた、読んだ人次第だと思うが、こういう比較もしてみると何か見えるかもしれないね。
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