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  2008年04月  

             
知りたい「事実」はどこにいる?
[2008/04/27 10:36] ひとりごと
私はやっぱり、テレビは嫌いだ。

必要な情報はくれず、いらない情報を押しつける。

テレビを流していると、だんだん頭が痛くなってくるから、

部屋のテレビ(備え付けがあるんだけど)は、棚の下にいつもしまってあるだけだ。



新聞も、読まなくなった。

昔は隅から隅までなめるように読んだ。

今は……ネットで各紙の記事を読むこと出来るし………。



週刊誌はまったく読まない。

………内容は、推して知るべし………だから。。



ニュースは、出来るだけたくさんの記事を読むようにしている。

ひとつの記事だけの判断でその事象について偏った見方しかできないのは嫌だから。





だけど……最近どうしても、「事実」を見つけることが難しい。

いろいろなニュースを読んでも、報道を見ても…そこにあるのは、「報道」と言うよりは「感想」とか「意見」とか「コメント」とか……。

どこか作り上げられたものがそこに潜んでいるような気がして、なんだか恐ろしい気がする。

ある「事実」すべてを取り扱うのではなく、その「事実」の「部分」を、切りとって、かすかに「味付け」された調理済みの「事件」がおいしそうに並んでいる……そんな風に思えてきてならないんだよね……。

テレビを見ても、新聞見ても………。

そして、何となく日本一億総動員して「情報操作」をしている……もしくは「させられている」ような気がしてならないんだよね。

意図的にではなく、無意識のうちに。


ひとつの事象について、あらゆる視点からの記事や表現は見られなくなっていて………。

「事実」を見て「自分で考えて意見を持つ」ことが出来にくくなっているような気がする………。っていうのは私の気のせいなんだろうか?


今朝からずっと、長野の聖火リレーについての報道を見ている。

案の定。

聖火の意義とか、今回長野で行われた意味とか、これからにむかっての提言を投げかけている記事にはなかなかぶつかれなくて……。

逮捕何人、警備に対して意見がたくさん、星野さんはうまくいって欽ちゃんは落ち込んで……昨日の中継で繰り返された「衝撃的な」「みんなが興味持ちそうな」部分のみの切り売りばっかりで……。


中国人の留学生たちが「平和的に応援したい」って「暴力禁止」を訴えていたこととか、善光寺さんで平和の祈祷を捧げたこととか……もっと大きく取り上げられていいことなのに、なかなか見つけ出すことが出来なくて。

長野の聖火リレーも「大騒ぎのうちに終わりました」……ってだけで。



「事実」が知りたい。

克明な「事実を書き連ねただけ」の記事ってどこに行けば手にはいるのかな。

聖火リレーを通して、日本の立場として何が出来るか、これからオリンピックにむかって、それからそれを通じて世界がもっとうまく結びつくために……私たち日本に生きるものに出来ること、考えていかなくちゃならないこと、そういうものについて考察して一緒に考えていく場所って、どこにあるんだろう?

少なくとも、私は自分の家庭ではちゃんとやろうと思っている。
子供たちに、今回の話をして、あなたたちはどう思う?って聞いてみたいと思ってる。

もし学校に勤めていたら……絶対にクラスでは扱いたかった。
長野オリンピックの裏も表も見た子供たちとも、こういう話、してみたかった。


あとはどこで、出来るんだろう?

匿名掲示板での盛り上がりは否定しない。
ああいう場所でも真剣に討論する人もいるんだから。
そしてそこに、真実が隠れていることもたくさんあるんだから。

ただ怖いのは、どの場でどんな討論をするのか、そういう判断さえも出来なくなっている状況が今、あることで。

匿名の場所ではその場での討論をし、でもそれはあくまでもバーチャルの世界でのことだとちゃんと認識できていればそれでいい。


起こっているのは「事実」だから。

ちゃんと事実をふまえて討論する場所が絶対必要なんだと思うのだけど。

どこに行ったらそれが出来るんだろう?


事実を検証する場所がない。
事実を確認する場所もない。
だから「これから」について一緒に考えアイディア出し合う場所もない。


私たちは一体、これからどう言う方向にどんな風に生きていったらいいのかと、一緒に考えて頭をひねる場所が、ない。


中国の事実。
チベットの事実。

どちらが正義でどちらが悪か。
そんなことはどうでもいい。

知りたいのは……そこにどんな事実があって、それがどうからみあって今の事実につながってきて、ここからどんな状態にむかえばいいのだろう、そのためには何が出来るだろう………ということだけ。


テレビも新聞も、様々なメディアは今、ひとつの側面からしか光を当ててない。

裏側や横側を見たいとき、私たちはどうすればいいのかな。

裏側や横側や、底や隅っこや……そういうところにこそ隠れているかもしれない真実を、どこから「見~つけた」ってすればいいのかな?


聖火のことをきっかけに、いろいろ振り返って考えてみて……。
教育のことだって、まさにこの通りで。
政治のことだって、まさにこの通りで。

あっちこっちに隠れたまま……いや、隠されたままに見つけてもらえない真実たちが、早く見つけてよ………って隅っこで小さくなって待っているような気がしてたまらない。
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