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  2008年04月  

             
さびしいね。ありがとね。
[2008/04/30 13:57] ひとりごと
「リンリン」死す、上野動物園のパンダ不在に

                             読売新聞

 東京・上野動物園にいる唯一のジャイアントパンダ「リンリン」(オス、22歳)が30日午前2時、死んだ。

 2000年にトントンが死んでから、同園のパンダはリンリンだけになっており、1972年に「カンカン」と「ランラン」が初来日して以来、同園のシンボルだったパンダがいなくなった。東京都は、新しいパンダの獲得を目指しているが、メドは立っていない。

 リンリンは国内最高齢のパンダで、人間では70歳程度。高齢のため、今月上旬から動きが鈍くなり、食欲が落ちるなど衰えが目立った。このため、同園は今月29日から公開を取りやめたばかりだった。死因は慢性心不全だった。

 リンリンは中国・北京動物園生まれで、92年11月に7歳で来日した。当時、上野動物園にいた「トントン」(メス)との間で、二世誕生の期待がかかったが成功せず、トントンが死んだ後の01年からは、メスのパンダがいるメキシコの動物園にリンリンを渡航させるなど、繁殖を試みていた。しかし、リンリンの衰えが目立ち、昨年から人工繁殖を断念していた。

 同園では85年~88年、フェイフェイ(オス)とホアンホアン(メス)との間で、計3頭を人工授精で誕生させた。しかしパンダは繁殖力が弱く、その後は成功していない。

 世界で唯一、野生のパンダが生息する中国は、過去に、外国にパンダを贈与したことがあるが、現在は、絶滅の危険があるとして、贈与をほぼやめている。繁殖のための共同研究という形で借りるしかないのが現状で、現在、神戸市立王子動物園と和歌山県白浜町のアドベンチャーワールドで飼育されている国内のパンダも、いずれも中国から借り受けている。このため、都も、中国からの借り受けを目指し、情報収集のための職員の派遣などを検討している。



ランランとカンカンが日本に来たとき。

それはそれは本当に大騒ぎでした。
ディズニーランドが出来たときのような大騒ぎだったように覚えています。

東京はまだ、遠い土地でした。
だから、パンダはテレビニュースで見ることが出来るだけでした。

パンダが来て、日本にパンダグッズがあふれました。
小学生だった私は、パンダのぬいぐるみ買ってもらって嬉しくて、毎晩抱いてねました。


いっぱいいっぱい夢を与えてきてくれたパンダたち。

上野ではもう、会えなくなるかもしれないんですね。

今まで夢をたくさんありがとう。。。
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ばかばかしくて、やってられません。
[2008/04/30 01:23] ひとりごと
何で1リットル30円も上がるんですか………ガソリン。。

車がなくちゃ生活してられない地方の交通網の脆弱さ。

道路作らなくてもいいから、安い鉄道網と便利のいいバス路線、作ってくれればいいのに。

一回で60リットル以上はいる車に乗っているので………

1800円も上がるんですか………。
一回満タンにするたびに、8~9000円も払わねばならなくなるんですか……。

やってらんないです。。

そんだったら車に乗るなって言いますか?

交通網の整備されていない田舎では、どこに行くにも1時間以上かかっちゃうです、それじゃ……。

それじゃもっと小さい車に乗れって、ですか?
大きな荷物はこんだり、家族全員乗せて走るには……特に、体の弱った老親を乗せて走るには、このくらいないとだめなんです。

それに、買い換えるにはまたお金がかかります。
すでに10年近く乗っていても、まだまだこれでがんばるつもりです。
買い換えるお金なんかありませんからね………。


正直言って……
道路の工事よりも交通網の整備して欲しいです。

道が広くなってもただ交通量増えてうるさくなるだけで。
生活は太い道で寸断されて。

それよりもっと、鉄道やバスの補助して充実させてください。
都会で便利に暮らすお役人のみなさま。


そして、国民に「節約」を要求するのなら………。
生活の切り詰めを要求するのだったら………。
その大切なお金をもっと「節約」して使ってください。。

私たちは、あなたたちの宿舎や無駄な調査のためにお金払っているわけじゃないです。

地方の道路事情は払ったお金に見合っているとはとても思えず。
この地域にある、川が氾濫するたびに通行止めになる幹線道路に架かる橋は、
新しい橋作り始めてもう10年以上たってもまだ全線開通になりません。


なんだかもう、ばかばかしくて、税金払いたくありません。。。

払わないって言ってもいいんですか?
だって、湯水のように使われるってわかっているのに、大事なお金払いたくありません。

払えっていうのだったら、もっとはっきりどこにどのくらいお金使っているのか、
みんなの前でちゃんと納得のいく説明してからにしてください。


ちゃんとした用途に、ちゃんとした目的に沿って、適正に使用されているって納得できたら、喜んで払いますよ、私は。

それもしないままに、ただ足りないから払えじゃぁ……

あまりにも払う方をないがしろにして馬鹿にしているってモンじゃないですか?


訳のわからないままに決まって、訳のわからないままに行われることがあまりに多すぎる。
見えないこと、見せないこと。

それは決してこの国のためにはならないことだと思うのだけれども。。

こういう小さな声は、この先も反映されることはないのでしょうねぇ。。
これでこの国を愛しなさいって言われても、無理ですよ……それは。。
ますます心は離れるばかりです。
子供たちにも、そんなこと言えませんよ。
それどころか、こう言いたくてたまりません。

「もう、日本はだめだから、早く自分の生きていく別の場所見つけなさい」

日本という国は……
一体どこに行ってしまうんでしょうね……。
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フィンランドの教育事情に学ぶもの
[2008/04/29 12:42] 教育・学校
フィンランドに見た教育の原点
2008.4.28 21:02              MSN産経ニュース

 経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)でトップクラスを維持するフィンランドに、世界中から教育使節団の訪問が相次いでいる。人口527万の“森と湖の国”に起きた教育の奇跡を探ろうと、欧米の競争至上主義者も血眼になっているのだ。しかし、そこには特別な秘密も最先端のノウハウも存在しない。教師への尊敬と1人ひとりの子供を育てたいという愛情が国全体に根差し、大きな花を咲かせていた。(ヘルシンキ 木村正人)

(中略)

 首都ヘルシンキで先ごろ開かれた教育制度セミナーには、米国、英国、日本、韓国など計19カ国の72人が参加した。訪れた小学校のビルマ・ツモイ校長(50)は「子供たちの頭をパカッと開けて物事を詰め込むのではなく、考えることを手伝っている」と話す。授業でも、教師が画一的に教える光景には出会わなかった。英語の授業に参加していたステラさん(12)は「先生のこと、大好きよ」と声を弾ませた。

(中略)

 同国はロシアとスウェーデンの2強国に長く支配され、1917年に独立を果たした。森と湖以外の資源といえば人材だけ。国家の生き残りをかけて取り組んだのが「国民の教育」だ。

 94年の教育改革では、「教える」から「子供を支援する教育」へと根本的な転換を果たした。20人前後の小人数学級で子供1人ひとりとの対話を増やす授業を実現。考え抜く教育はOECDが目指す方向とぴったり合った。

 これまで6回セミナーに参加した都留文科大の福田誠治教授は「主要な貿易相手国、ソ連が91年に崩壊したことでも変化を強いられた」と指摘する。失業率の上昇で福祉制度を維持しながら「小さな政府」を目指したフィンランドは、教育制度の中間管理職を極力小さくして現場を厚くした。

 日本より簡単な教育指導要領はあるものの目安にすぎず、現場の教師に大きな裁量権と責任が与えられた。教師は十二分に専門性を発揮して生徒の成長を支援し、学校・父母・地域・自治体・国家が教師を支える仕組みを作り上げた。生徒と教師の人間関係を重視する教育を「オールド・ファッション」とフィンランド国家教育委員会の関係者はセミナーで強調した。

 (後略)

記事はこちらから



今の教育に必要なのは、これだと思うのです。。

かつて「学校」は文化を学ぶ場所でした。

学校に行けば、知識を得ることが出来ました。
学校に行けば、毎日の生活で触れることの出来ない経験を手にすることが出来ました。
学校に行けば、気が付かなかった身のまわりの事象にも、たくさんの「決まり」があって、その中で理路整然と世の中が動いているという「仕組み」に気が付くことが出来ました。

今の学校はどうでしょう?
そういう魅力があるのでしょうか?

なぜ、学校は「あこがれの場所」ではなくなったのか。

その点についてもっとみんなで考えるべきだと思います。

学校があこがれの場所になったら、絶対みんな行きたくなります。
学校は楽しい場所になります。
そして心から、学ぶ楽しさを知ることが出来るようになります。

それがないのが、今の日本の学校です。


どうしたら学校は、「あこがれの場所」に戻れるのか。

そのヒントが、この文章の中にたくさんあるような気がします。。。


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期待してもいい?>docomo
[2008/04/28 16:29] ひとりごと



DoCoMoの経営方針が変わったらしい。

新規顧客獲得よりも、今までの客をつなぎ止める方向に転換したらしい。

これは非常に嬉しいことだ。
携帯の契約を初めてしたときには、DoCoMoしかなかった状態だったから、選択の余地はなかった。

だけど今は、各社がしのぎを削っている状態で、正直「DoCoMo」である理由はなくなった。

単に携帯番号と、携帯メールアドレスが変わるのがめんどくさい……たったそれだけの理由で私はずっとDoCoMoだった。

でも、何回も変えようかな、とは思っていた。
だって、新規契約の方が安い。
料金体系は、もう10年以上もDoCoMoなのに、割安感がない。
携帯番号は、番号ポータビリティーがあるから変えなくても済む。

機種変更をしようと思うたびにどうしようかと迷っていた。

今回、こんなニュースもある。



ふ~ん、なかなかに魅力的。
具体的にはどんな風になるのかわからないけど、ちょっと期待させる内容ではある。

どこまでやってくれるか、DoCoMo。
もうちょっと、乗り換えは見送ろうかな……と思わせるニュースだった。
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知りたい「事実」はどこにいる?
[2008/04/27 10:36] ひとりごと
私はやっぱり、テレビは嫌いだ。

必要な情報はくれず、いらない情報を押しつける。

テレビを流していると、だんだん頭が痛くなってくるから、

部屋のテレビ(備え付けがあるんだけど)は、棚の下にいつもしまってあるだけだ。



新聞も、読まなくなった。

昔は隅から隅までなめるように読んだ。

今は……ネットで各紙の記事を読むこと出来るし………。



週刊誌はまったく読まない。

………内容は、推して知るべし………だから。。



ニュースは、出来るだけたくさんの記事を読むようにしている。

ひとつの記事だけの判断でその事象について偏った見方しかできないのは嫌だから。





だけど……最近どうしても、「事実」を見つけることが難しい。

いろいろなニュースを読んでも、報道を見ても…そこにあるのは、「報道」と言うよりは「感想」とか「意見」とか「コメント」とか……。

どこか作り上げられたものがそこに潜んでいるような気がして、なんだか恐ろしい気がする。

ある「事実」すべてを取り扱うのではなく、その「事実」の「部分」を、切りとって、かすかに「味付け」された調理済みの「事件」がおいしそうに並んでいる……そんな風に思えてきてならないんだよね……。

テレビを見ても、新聞見ても………。

そして、何となく日本一億総動員して「情報操作」をしている……もしくは「させられている」ような気がしてならないんだよね。

意図的にではなく、無意識のうちに。


ひとつの事象について、あらゆる視点からの記事や表現は見られなくなっていて………。

「事実」を見て「自分で考えて意見を持つ」ことが出来にくくなっているような気がする………。っていうのは私の気のせいなんだろうか?


今朝からずっと、長野の聖火リレーについての報道を見ている。

案の定。

聖火の意義とか、今回長野で行われた意味とか、これからにむかっての提言を投げかけている記事にはなかなかぶつかれなくて……。

逮捕何人、警備に対して意見がたくさん、星野さんはうまくいって欽ちゃんは落ち込んで……昨日の中継で繰り返された「衝撃的な」「みんなが興味持ちそうな」部分のみの切り売りばっかりで……。


中国人の留学生たちが「平和的に応援したい」って「暴力禁止」を訴えていたこととか、善光寺さんで平和の祈祷を捧げたこととか……もっと大きく取り上げられていいことなのに、なかなか見つけ出すことが出来なくて。

長野の聖火リレーも「大騒ぎのうちに終わりました」……ってだけで。



「事実」が知りたい。

克明な「事実を書き連ねただけ」の記事ってどこに行けば手にはいるのかな。

聖火リレーを通して、日本の立場として何が出来るか、これからオリンピックにむかって、それからそれを通じて世界がもっとうまく結びつくために……私たち日本に生きるものに出来ること、考えていかなくちゃならないこと、そういうものについて考察して一緒に考えていく場所って、どこにあるんだろう?

少なくとも、私は自分の家庭ではちゃんとやろうと思っている。
子供たちに、今回の話をして、あなたたちはどう思う?って聞いてみたいと思ってる。

もし学校に勤めていたら……絶対にクラスでは扱いたかった。
長野オリンピックの裏も表も見た子供たちとも、こういう話、してみたかった。


あとはどこで、出来るんだろう?

匿名掲示板での盛り上がりは否定しない。
ああいう場所でも真剣に討論する人もいるんだから。
そしてそこに、真実が隠れていることもたくさんあるんだから。

ただ怖いのは、どの場でどんな討論をするのか、そういう判断さえも出来なくなっている状況が今、あることで。

匿名の場所ではその場での討論をし、でもそれはあくまでもバーチャルの世界でのことだとちゃんと認識できていればそれでいい。


起こっているのは「事実」だから。

ちゃんと事実をふまえて討論する場所が絶対必要なんだと思うのだけど。

どこに行ったらそれが出来るんだろう?


事実を検証する場所がない。
事実を確認する場所もない。
だから「これから」について一緒に考えアイディア出し合う場所もない。


私たちは一体、これからどう言う方向にどんな風に生きていったらいいのかと、一緒に考えて頭をひねる場所が、ない。


中国の事実。
チベットの事実。

どちらが正義でどちらが悪か。
そんなことはどうでもいい。

知りたいのは……そこにどんな事実があって、それがどうからみあって今の事実につながってきて、ここからどんな状態にむかえばいいのだろう、そのためには何が出来るだろう………ということだけ。


テレビも新聞も、様々なメディアは今、ひとつの側面からしか光を当ててない。

裏側や横側を見たいとき、私たちはどうすればいいのかな。

裏側や横側や、底や隅っこや……そういうところにこそ隠れているかもしれない真実を、どこから「見~つけた」ってすればいいのかな?


聖火のことをきっかけに、いろいろ振り返って考えてみて……。
教育のことだって、まさにこの通りで。
政治のことだって、まさにこの通りで。

あっちこっちに隠れたまま……いや、隠されたままに見つけてもらえない真実たちが、早く見つけてよ………って隅っこで小さくなって待っているような気がしてたまらない。
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チャンネルを変えると、そこはもう日常。~聖火リレー報道に思う~
[2008/04/26 12:54] ひとりごと
オリンピックの聖火リレーを見ながらいろんなコトを思いました。

まだ子供の頃。
上諏訪に住んでいた私は、まだその頃生きていた妹を背負った母に連れられて弟と一緒に東京オリンピックに向かう聖火の走者を見送りました。

小さかったから、その頃のことはほとんど覚えていませんが。
聖火、というのは夢のバトンに思えました。
それを応援できたことは誇らしい記憶として心に残っています。


10年前。
長野にオリンピックが来たときには、オリンピックを迎える側として、交流国の国歌を練習したり、聖火応援用に旗を作ったり、いろいろ問題はありましたが、世界の人々を迎える意味で、交流の意味で、いろんな意味でのオリンピックを見つめることが出来ました。

テレビの報道でも、10年前の光景を流していましたが、本当にみんなで応援した聖火リレーだったんだよな……。
オリンピックはだいぶ「イベント化」してはいましたがそれでも関わる人間としては身近なものとして心を込めて一緒に作り上げた…そういう思いも残りました。

10年後の今日の聖火リレー。
前日の長野市の物々しさに背筋に寒気を覚え、無事に終わるようにと祈ることしかできない自分がそこにいました。

朝からずっと、日頃はまったく見ないテレビを引っ張り出してリモコン片手に見守りました。


リレーする走者の皆さんは、本当にいい顔で走っていました。
それが何より嬉しかったです。

周りには赤い旗。
それがずっと併走しています。
中継の周りはものすごい騒音。
応援の声はほとんど聞こえません。

そういう聖火リレーを見て感じることは山ほどありました。
でも、それについてはきっと皆さんおのおのに思うところあったと思います。

私は違う面から、この報道を見る自分がいることに気が付きました。


報道が「ライブカメラ」での中継なのはいいのだけど、本来の番組をやっている横で申し訳程度に流れている時間が多い。

時々メインの画面で流れるのは、何回も何回も報道される著名人のインタビュー。それから事件っぽいことがあった場面。

そして一番知りたい「今」を知ることは出来ない。

アナウンサーの余計なコメントなんかいらないから……その場の空気を運んで欲しかった。映像を見ることで、見たものが感じ、思うことまでアナウンサーのコメントで左右されてしまうんだな……。

そして、深刻な顔でこの事態を報道したその次の瞬間にはあっけらかんとCMが入り、バラエティーがはじまり、違う番組の世界に引きずり込まれる。


「知りたいこと」を得ることが出来ず……「押しつけの情報」が断片的に流されるこの報道の仕方は、いつからのことなのだろう?

子供の頃に見た、浅間山荘のニュースや、地附山の地滑りの報道。

生々しい映像が既成の番組を中止してずっと画面から流れていました。
知りたい「今の状態」がそこにあり、多くのコメントやアナウンサーの感想の付かない「実況中継」から、現場の状況を視聴者は身近なものとして知ることが出来ました。

子供心に、これは大変なことが起こっていて……早く解決して欲しい、怪我の人は出ないで欲しい……と強く祈りながら見守っていた記憶があります。

対して、今回の聖火の報道。

もしかしたら、各テレビ局は、「何か起こること」を期待していたのではないのだろうか?そんなことを勘ぐりたくなるような報道でした。

くり返し流れるのは事件的な出来事や、著名人の感想ばかり。
一般の走者の汗や願いなどはまったく伝わってきませんでした。

そして、ここに関わる中国とチベットの問題。
オリンピック自体の存在意義の問題。
そういう物はまったく何もからまってきませんでした。

一体……今回の騒動で何を日本の人々は学んだのでしょう?
「オリンピックはもうだめ」という思いでしょうか?
「中国人怖い」「チベットの人どうなってんの?」そんな思いしか残らなかったのではないでしょうか?

このあと、またニュースの時間になったら流れる映像は、たぶんまた同じ場面が繰り返されるだけでしょう。
平和に対しての思いや、オリンピックに対する思い、そしてこの聖火リレーがもたらしたものの検証、これから考えて訴えていかなければならない思い……そういうものはたぶん、まったく次の瞬間には消え去ってしまっているのでしょう。

テレビのチャンネルをリモコンで操作すると流れ出す、まったく違う番組のように。。

今この瞬間から、あっという間に「日常」に戻ってしまう、その何ともいえない恐ろしさ……そんなものを報道の様子を見ながら感じていたのでした。

せっかく、世界の流れや平和について考えるいいチャンスだったのに……。


もっとどうにかならなかったのだろうか?

外には冷たい雨が降っています。
なんだか、心の中にも冷たい雨がしとしと降っています。
何とかしたい……どうにかならないの?
だけど、どうしたらいいのか、わかりません。。。


よかったら、この記事、読んでみてください。。

善光寺・チベット騒乱犠牲者追悼法要


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どっちが正しいのでしょうね?
[2008/04/13 12:54] 教育・学校
<入学式>入学金未納の2人、出席させず 千葉県立高

                  (毎日新聞 - 04月13日 02:41)

 千葉県八千代市の県立八千代西高校(大迫太校長、339人)が、入学金未納の新入生2人を入学式に出席させなかったことが12日分かった。大迫校長は「授業料滞納が目立ち、未納は負担の先送りと思った」と話すが、県の公立高校教職員組合は「非教育的対応」と批判している。

 県教委と同高によると、新入生159人に、入学金、教材費など9万円を8日の入学式に持参するよう求めていた。男女各1人が「お金が用意できない」などと持参せず、式直前、校長がそれぞれの担任に別室での待機を指示した。2人は約40分の式の間、教室と会議室で待機した。

 男子生徒は式前に学校の指示で母親に「入学金を払わないと式に出られない」と電話で事情を説明。母親は「後で払う」と答えたが、学校側は「滞納の可能性がある」として出席させなかった。母親は午前11時ごろ、9万円を持参して学校を訪れたが、式は終わっていた。その後、生徒は校長室で氏名を読み上げられ、「入学を許可する」と伝えられた。

 女子生徒の母親は午後5時ごろ、2万円を学校に持参し、同様に入学を許可された。

 大迫校長は「入学式当日に必要なお金は3月の説明会で伝えている。経済的問題があれば相談するよう話した。苦渋の決断だったが、当然の判断だと思っている」と説明。県教委指導課の田山正人・主任指導主事は「保護者と生徒にはつらい思いをさせてしまった。事前に入学金についての十分な説明をしており、学校としてはやむを得ない判断だったと思う」と話している。

 教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」と話している。【神足俊輔】



・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆


私はねぇ……やっぱりこの教育評論家の人がおかしいと思うんですが。

だって「入学金」って、「入学させてもらうんだから払います」というお金でしょ?
それを払わないって言うんだから、「入学する気がない」ってことなんでしょ?

そのお宅の事情はわかりません。
でも、世の中にはルールってものがある。

高校は、義務教育じゃなくて、「勉強したいから自分で行くことを決める」人が行くところ。入れてもらうところなんですよね。
たとえ今、ほぼ全入状態になっているにしても…実際、お金がないからあきらめる人だって、いることはいるんです。

当日の朝に言われたことじゃない。
前から言われていることで。

「お金はちゃんと払います」というのは、入学の条件としてもちゃんとあるはずで。

誓約書を書いて出すんだから、そんなこと知らなかったで済まされるはずがないでしょ。

義務教育の学校給食費の滞納だって、それがおかしいとか恥ずかしいとか言う感覚にならない今、それが問題になっている今、なぜ「高校の」入学金を払わない人が入学式の出席を拒まれて、学校が責められなくちゃならないんでしょうね?

この事例の場合は、入学取り消しになっても当たり前だと私は思うのですけど。
そして、こんな当たり前のことが、記事になるのはおかしいと、私は思うのだけれどもね。

教育費は、高いです。
国から補助の出る義務教育でもかなりのお金がかかっています。
ましてや、高校だったらかなり必要なことはわかるはず。
それを承知の上で、高校に行かせることにしたんでしょ?親も、子供も。

うちの娘も、今年高校に入りました。
入学金については、払わなくちゃ取り消しになるからと、うちだって裕福じゃないけれど、ちゃんと絞り出して払いましたよ。

こんな記事が出ることもおかしいし、学校に対しての批判が出ることも間違っていると私は思います。

社会というのは、ちゃんと代価を払って成立していくものだという「教育」だってなされるべきだから、入学取り消しにならなかっただけでも十分に情状酌量していると思うし、そのことに感謝こそすれ、批判するのはかなりお門違いだと私は思いますけれど……。

………私の考えは、おかしいんでしょうか?






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早期発見、早期治療…わかっているけどね。
[2008/04/12 14:22] ひとりごと
うつ、受診は4人に1人=周囲や掛かり付け医の役割大-ネット調査

           (時事通信社 - 04月12日 06:12)


 うつ病やうつ状態の可能性がある人の4人に1人しか医療機関に掛かっていないことが、12日までにファイザー社のインターネット調査で分かった。受診への抵抗感がいまだ根強いことが浮き彫りになった形だが、家族や友人らに相談することで、受診率は大幅に向上した。

 調査に協力した中込和幸鳥取大教授(精神行動医学)は「自分がうつだという判断は難しく、家族や同僚、掛かり付け医など周りの人が気付くことが重要」としている。

 調査は、うつの認識などに関する一般の人を対象とした調査と、治療実態や満足度に関する患者調査の2種類。昨年2月と3月、それぞれ4000人、1000人を無作為抽出し実施した。 



・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆

う~~~ん。
タイトル通りで、うつに限らずどんな病気でも、早期発見早期治療は大事なんですよね。

ただ。
うつ病って難しいのは、ぱっと見には病気じゃない……からね。

体が動かない。
何かするのがおっくう。

そのあたりは、日本の人って「根性」で片付けようとするからなぁ。

怠けるな、頑張れば何とかなる。
それは、周りもそうだし、一番は本人が思っちゃうことなんだよね。
自分は動けないで怠け者。
やる気のでない自分はだめなやつ。

そう思っちゃうから病院なんて頭の隅にも入ってこないんだよね。。

早期発見は、大事なんだけど。
でも、見つかりにくい、気が付きにくい、環境があるのも確かなんです。

そのあたりをどうしたらいいのか…。
考えていくこともすごく大切なんじゃないか、と思うのです。


ああ…
ここで一緒に報告します。

ずっと閉鎖していたもう一つのブログ。
「うつのくれた贈り物」を、再開しました。

以前までの文章は、見直しながら再掲載いたします。
新しい文章をだんだんアップしながら、並行して進めます。

うつや、不登校について、書ける部分を明らかにしていこうというこの文章です。
よろしかったら、また、読みに行ってくださいませ。
         ↓
体験記録ブログ
「うつのくれた贈り物」


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「教師」は、やめました。
[2008/04/01 11:34] ひとりごと
身近な人たちはもう知っている人がほとんどでしょうけれども。
わたしは「教師」を、辞めました。
3月31日付で、退職です。

この仕事に携わってから、たくさんの生徒と出会いました。
たくさんの先生方とも出会いました。
たくさんたくさん悲しい思いやつらい思いをしました。
だから、うつという病気にもなりました。

けれども。
ネットの上で、演奏会で、いろんな場所で偶然再会した昔の教え子たちからは、「先生と一緒に音楽やって楽しかった」とか、「先生の授業で音楽が好きになった」とか、嬉しい言葉をたくさんもらって…子供の頃から目指していた、「先生」になってよかったと、心からそう思うのです。

正直言って、教育の現場は、わたしが先生を目指した頃に比べてまったく変わってしまいました。

子供と心からじっくり向き合いたいと思っても、その時間がなかなかとれない。
仕事が終わってから、「おい、行くぞ」という先輩の先生の誘いに乗って飲みにいって、アルコールで高揚する気持ちとともに先輩後輩関係なく、教育に対しての熱い思いを語り合った…そんな熱のあるおつきあいも、ほとんどなくなってしまって。

時間に追われて黙々と毎日の仕事を流れ作業のように繰り返す。
上からの指示は絶対で、実際に生徒と対していてそれはおかしいと思う指示もたくさんで。
本来はそうではないと思うことも、そうせざるを得ない毎日に自らの心を削って。


うつ病という病気になって、学校という閉鎖的な世界を始めて外から見つめるきっかけを持って、初めてその異常さに気が付くことが出来ただけ、わたしはまだ救われているのかもしれません。

本当に、生徒と向き合いたかったら。
もう学校の中ではムリなんだ。
自分の思いをふくらませて、生徒と頑張っていこうと思っても、あっちこっちでつっかえ棒が飛び出して、思うようには動けない。

「公務員」であることや、「教師」であることが、こんなにも自分の思いを妨げるのだったら。大切な生徒との間に厚い壁を作るのだったら。
そこから、離れよう。。

それがわたしの想いでした。

本音を言えば、もうちょっとこれからの活動に対しての足固めをしてから、という思いがありました。子供たちはようやく2人とも高校生。これから高校大学と、お金がかかる時期でもあり、そこから離れることは経済的にかなりの不安でもあります。

でも、このままいたら壊れるだろう。
今の教育現場には、わたしはもう、はまることは出来ません。
このまま自ら壊れてしまうのだったら、そうなる前にここを離れて自分の出来ることを、生徒たち、特に不登校や心の病みにとらわれて苦しんでいる子供たちのために出来ることを小さくても一歩ずつ、新しく積み重ね始めよう。

そう、思いました。

まだまだ動けるうちに。まだまだ元気なうちに。
今までのたくさんの生徒と、尊敬できる生徒思いの先輩の先生たちから学ぶことの出来たたくさんの宝物が、まだその輝きを失わないうちに。
さらにその宝物に磨きをかけて、もっともっと豊かにみんなと共有できるように。

わたしはわたしの道を、これから試行錯誤しながらも歩いていこうと思います。

今までのわたしを作り上げてくれたすべての皆さんへ。
ありがとうございました。
そして、これからも頑張れるように、くじけないように、ずっと見つめてやってくださいね。

「公立学校教師」としてのわたしは、昨日で終わりです。
けれども、わたしは「先生」ではあり続けたいと思います。

生きてきた上で感じたいろんな気持ちや経験を元に、自分のあとに生きる人たちが1人でも多く自分らしく生きることが出来るために、先に生き、生き生きと生き、笑顔で生き続けていきたいと思っています。

今日が、わたしの「先生」としての、独り立ちの日…なのだと思っています。
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