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  2007年08月  

             
今日は…
[2007/08/15 02:54] 生活・自然
終戦記念日、です。

最近は、いろいろと自分なりに考えるようになった息子や娘と戦争についての話をすることも多くなってきました。

若いかれらは若者なりの新鮮な視点で素朴な疑問をたくさんぶつけてきます。

その真剣さをきちんと受け止めながら、戦争を知らない私達の世代も両親から聞いた戦争の事実を、そして自分なりに知り得た戦争についての事実を、そのままに子供たちに伝えて彼らと共に考えていく気持ちをいつも忘れずにいたいと思います。

あやまちは繰り返さない。
改める部分は改め、守るべきものは守る。

そういう気持ちをしっかり持った「次をになうもの」を育てていくことがつなぐ私達世代の役目だとわたしは思っています。

終戦記念日。「敗戦記念日」と言わないことから始まって、いろいろと戦争の表記、表現については考えることは山積みです。

「事実」は「事実」のまま、ありのままをまげずに、目をそむけないできちんと正面から向かいあって行くことも、大切なことではないか、と…思っています。

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世の平安も、心の平安も
[2007/08/10 00:17] 生活・自然
二つの記事からおもうこと。




<長崎原爆>国境越え心に痛み 元教師、碑石引いて韓国縦断

                    (毎日新聞 - 08月09日 17:31)

 「被爆者が負った痛みは国境を越えても変わらない」。長崎市で被爆した元高校教師の語り部、広瀬方人(まさひと)さん(77)は9日朝、爆心地公園にある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で静かにこう語った。今年4~6月に「謝罪と友好、平和のために」と刻んだ約1トンの碑石を引いて韓国を縦断する「ストーンウオークコリア」に参加。道中で出会った韓国人被爆者に同じ“心の傷”を感じ、命ある限り語り続けることを誓った。

 ストーンウオークは戦没者を悼む碑石を載せた台車を綱で引いて運び、平和を訴える行動で99年に米国で始まった。「コリア」は4月29日、釜山市を出発し、48日間かけて軍事境界線のある板門店を目指す約1000キロの旅。日本からは広瀬さんら26人が参加した。

 旅の途中、一行は在韓被爆者が多く暮らす南部の都市、陜川(ハプチョン)に立ち寄った。懐かしむように日本語を話し、被爆体験を語る82歳の女性に出会った。「広島で被爆し、死体の間を歩いたこともある」。思い出したくない風景を口にする女性を見て、62年前から胸にしまっていた記憶が頭をよぎった。

 15歳。学徒動員され、爆心地から4.8キロの長崎市小菅町の三菱重工工場でせん光に襲われた。顔を覆い床に伏せたが、爆風で割れたガラスが頭上から降り注ぎ、両腕を負傷した。原爆投下から約3時間後、工場近くに船で運ばれてきた負傷者を見た。顔は熱線で焼けただれ、すさまじい形相だった。「私が最初に見た被爆者です。思い出したくなく、ずっと心に閉じこめていた」

 多くの韓国人の助けを借りて6月15日、無事に板門店に着いた。「在韓被爆者も碑石を運んでくれた。一緒に碑石を引いた友人に銃を向けることができるかい? 互いの国民が知り合うことが平和の出発点だと思う」と振り返る。

 長年の被爆体験の語りに碑石の旅以降変化が出てきた。「これまで出会った友人の顔を浮かべながら心を込めて話すことが出来るようになったんです」。広瀬さんはそんな思いを込めて8日、千葉県習志野市の平和事業で来たという中高生4人に、そして9日、追悼碑に祈りをささげた直後も長崎市横尾の横尾中で全校生徒268人にこう語りかけた。「長崎を最後の被爆地にしたい。平和のために自分で何ができるかを考えてほしい」




8月6日は広島に、8月9日は長崎に、原爆が落とされた日だ。
これを語り継ごうとし、この記憶を薄れさせまいとする活動がある一方で、実際の体験者は年々減っていく。

これは世の習いだから仕方がないとしても、語り継がれるべき事は次の世代に確実に引き継いでいく責任があるように思う。

そして、実際に体験した人達の心の奥にある思いを、語られることさえつらい思いを…次の世代の人間は真摯に受け止めていかねばならないと思う。

そういう思いを新たにしつつ、この記事の二つの言葉に感銘を受けた。

「互いの国民が知り合うことが平和の出発点だと思う」
「平和のために自分で何ができるかを考えてほしい」


今の日本を見ていて、この気持ちが欠けているのではないか、と思うわたしはこの言葉、しっかりと一人一人が考えていくべきなのではないかと思っている。

国が違い、環境が違い、言葉が違う。
文化も思想もみんな違う。

そういう人間がひしめき合っているこの世の中。

世界中という広い範囲を見なくても、これは私達のごく身近な周りにも当てはまる言葉だなぁ、と思う。

一人一人の人間はみんな違うから、「日本人」という括りでまとまってはいても、考えること、物の見方などはみんな違うのだ。

そういうさまざまな人間が生きるこの世の中で、日頃「知り合う」ということを、どのくらいの人間が大切にしているだろう?
お互いの想い、願い。そういう物をどのくらい大切にして生きているのだろう?

ちょっと言葉を尽くし、相手の目を見て相手を理解しようとすればわかるはずのことを、「わかろうとする努力」をどのくらいの人間がしているのだろう?

自分の見た目思うがままで、実際に相手の思いを確かめもせずに物事を進めていないか?
自分のことばかりしか見えないままで、自分が悪くなければみんな人が悪いと、「誰かのせい」にしてしまってはいないか?

人と知り合うことはかなりの努力を要する。
自分の理解の範疇を飛び出さないと、人の理解は出来ないから。

誰かのせいにしてしまったら、すごく楽だ。
責任は自分にはないと、考えることをしなくてすむから。

でも、本当の意味で平和を願うのだったら、「他者の理解」をして「相手と知り合う」ことはとても大切だ。大変なことだけど、でもやればそれだけの実りがあるはず。

そして、原因を常に外に求めずに、自分にも何かできることがないかと考える…この事は未来に繋がる大切な思考だと思う。

「何が出来る?」と考えたときに、では、どこをどうしたらよくなるのか…という考えは必ず働く。自分が出来ること、と考えればどんな問題も身近にものになる。その問題を何とかしようと思うときに、誰もが悪い方に向かうことを望みはしない。

一人一人がこういう考えにたって出来ることを頭に思い描き、そしてそれをお互いに「知り合う」事でネットワークとして広げていったら…一人で出来ることは小さくても、ネットワークでみなで協力しながらやっていったら、その力は大きな推進力になるはずだと思う。

そんな思いは、ここにも当てはまるのかな、ともう一つの記事を読んだ。




<学校基本調査>中学不登校35人に1人…5年ぶり増加
                   (毎日新聞 - 08月09日 19:01)

 30日以上欠席した「不登校」の小中学生が5年ぶりに増加し、06年度は12万6764人になることが、文部科学省の学校基本調査速報で分かった。不登校の中学生の割合は、現行方式で調査を始めた91年度以来過去最高の2.86%に上り「35人に1人」となった。同省は「昨秋からいじめが問題化し『いじめられるくらいなら登校しなくてもいい』と考える保護者が増えたとみられる」と説明している。

 ◇保護者「いじめよりまし」

 今年5月1日現在で、全国の国公私立小中学校を対象に調査。不登校は前年度より3.7%(4477人)増え、小学生は同4.9%増の2万3824人、中学生が同3.4%増の10万2940人だった。

 不登校の小学生の割合は「302人に1人」(0.33%)。中学生では過去最高だった01年度より0.05ポイント上回った。小中学生合わせた不登校は「85人に1人」(1.17%)となる。文科省は「人間関係づくりが不得手な子供が増えているほか、家庭の教育力が低下した」などとも指摘している。




この記事を読んで、がっかりした。

不登校の生徒が増えたこと、それが問題ではないとわたしは思う。
何故「不登校」という事実があるのか、それをもっと「見」ないと、不登校はなくなりはしないのだ。

なのに、文科省の発言はこうだ。

「人間関係づくりが不得手な子供が増えているほか、家庭の教育力が低下した」などとも指摘…だ、そうだ。。。

こうやっていつまで原因を外に求めているのだろう?
自らの中にある問題点にどうして目を向けようとしないのだろう?

この発言の中には、「教育現場に問題はない」という気持ちと、「家庭が悪い」「子供が悪い」という視点しかない。

先に書いた「自分(文科省)で何ができるかを考えて」という視点…つまり、教育現場を変えなければ…教育現場を見直さねば…教育現場で出来ることはなんだろう?…という視点がないのだ。

さらに思うのは、いつまでたってもこの「上から目線」でこの問題を捉えるしかできなかったら、「知り合うこと」など出来やしないのだ。

不登校の子供や、その子供を抱えた親の気持ち、視点などに近づけるはずもないのだ。

知り合うことの努力を怠り、自分に何が出来る、という視点でものを見ようとしない人々には、この問題を理解し、解決に向けての動きをとることなどできはしないのだ。

子供たちの心の平安や、学校にいかないことを選んだ親の気持ちなど、わかりっこないのだ。


世の平安も、心の平安も、広瀬方人(まさひと)さんの語る言葉の中にその答えがあるように思う。

こういう言葉の持つ重さと大切さに気がつかないと…いつまでたっても世の中にも心にも平安は来ないはずだ…、そう思いながら、わたしは私に出来ることを小さくてもやっていこうと気持ちを新たにした。
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不思議なメールの知らせ
[2007/08/02 08:48] 生活・自然
今朝、いつものようにメールの受信をしたら、誰からかわからないメールがひとつ。

最初は、また迷惑メールかな、と思って読まずに削除しようかと思ったのですが、何かの勧誘でもなさそうで…タイトルには「ありがとう」と書いてありました。

開いてみたのですが、文面はどうやら病気で…入院することや、外泊したらまたメールします、という内容でした。

わたしにはすぐには心当たりがなかったのですが、お一人思い浮かびました。

以前、このブログでご紹介した「ピヨちゃん」というお友達です。


「お願い!一緒に祈って!」


なので、彼のブログに久々に行ってみました。
更新がなかったので、最近は気になりながらも訪れていなかったんです。

そこで、人達のコメントを読んでいて…彼が旅だったことを知りました。

SNSで知り合って、お友達登録して、その後間もなく病気が再発して入院して…一度も会うことなく旅立ってしまった彼に対して、わたしは祈ることしかできませんでした。

でも、ほんのちょっとだけでも彼が闘っていたことを知り、彼の生き様をブログで知ることが出来、命の煌めきを感じることが出来て、ほんの一瞬だけど彼が心に生きていた証をここにも持つことが出来たのかもしれない…彼の生きた証を心に刻むお手伝いが出来たのかもしれない…。

そう思って短い期間だけだったけど、心から彼のご冥福をお祈りしたいと思います。

あのメールは、誰からのだかわからない。
でも、やっぱりピヨちゃんからのものだったのかもしれない。

ピヨちゃん、どうか天国で安らかにお休みください。
また、あの記事を読んで一緒に祈ってくださった皆さん、ありがとうございました。
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