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  2007年06月  

             
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「人」という漢字は…
[2007/06/24 04:10] 生活・自然
あるドラマでこのセリフが大きく取り上げられてから、これはすっかりこの文字を表す言葉になってしまったような気がする。

「人という文字は、人と人とが支え合って成り立っている文字だ」

でも…そうなの?

わたしはこの字を見るたびに、「支え合い」という言葉は今ひとつ腑に落ちない思いで見ていた。

だって…どう見たってこの漢字、二つの線の長さが違ってる。
どう見たって…長い方が、短い方に「寄りかかって」いる。

だからどう見たって「支え合い」ではなく、短い方が長い方を支えて踏ん張っている、としか思えないのだ…。この字を「二人の人間関係」で見たら。

何でこの漢字…一つの文字なのに、わざわざ分解する必要があるんだろう?

これはこれで、一つの「文字」。
つまり、ひとりの人間を表している、という解釈じゃなぜいけないんだろう?


そもそも、「支え合うこと」は、なぜ成り立つのか。

まずは、お互いが対等でなければならない。
「支え合う」と言うのだから、お互いに同じだけの力関係でなければ成り立たない。どちらかの力が強かったら、それは単に依存し、される関係にしかならないからだ。

では、対等になるにはどうあればいいか。

心の面でも体の面でも、お互いにひとりの人間としてしっかりと立っていなくてはならない。力関係において、どちらかが心が弱かったり、どちらかが体力的に劣っていたら…やはり依存関係にしかならないのだ。

けれども、人間はみな同じではない。
誰もが何でもできるわけではない。

この人は、計算が得意。
この人は、表現が得意。
この人は、走るのが速い。
この人は、人とのつき合いがうまい。

それぞれに得意な面がある。と同時に、逆もまたしかり。

人は生きていく上で、自分の得意な面を生かしながら、自分のたりない部分を補って生きている。でも、これはひとりだけではいかんともしがたい部分がある。

たとえば、お医者さんは病気を治す。でも、それがいくら上手でも、農業の人のように上手に食べ物を育てられない。食べ物は、農家の人に作ってもらい、お店で売ってもらったものを購入して食べる。

医者だけでは世の中成り立たず、農家の人やお店の人だけでも世の中成り立たない。

それぞれの職を持つ人が、自分の仕事に誇りを持ってみんなで自分の仕事に集中するから、世の中うまくまわっていくのだ。

人間関係、これと同じだと思う。

「支え合う」という世の中のためには、まず、それぞれの人間が人として自分をしっかりと立てなければ成り立たない。
その上でお互いの長所を生かして支え合って生きていく。
これが本来の「支え合い」であって決してそこには同情とか哀れみとか言う感情はないし、お互いにお互いをひとりの自立した人間として尊敬しなくては成り立たないのだ。

これがどうも、間違ってとられたのが「人という字は…」という言葉であるような気がして仕方ない。


「人」という文字は、人間が足を踏ん張ってひとりで大地に立っている姿…でいいじゃないか。

ひとり、自分で自分を支え、自分で自分の心と語り合い、自分で自分の大切なものをはぐくみ…生きている姿でいいじゃないか。

そういう人間は、生きることの大変さも辛さもみんな知っているから、他の人間の足下をすくったりばかにしたり、変な同情をかけたりすることなどはないはずだ。お互いの人格、お互いの人間性、そういうものを大切にし、お互いの立っている基盤には触れることなくそれぞれが並立している…そんな姿が理想の「支え合い」のような気がする。

お互いにお互いの無い物ねだりをしたり、相手の立場や状態をうらやましがったり…そんな関係からは本当の「支え合い」は生まれてこない。

スギの林のように、みんなが地に根を張ってまっすぐ天に向かって立っていて。
お互いに干渉し合うことなく、けれども一つの林という景観を構成しているもの同士、つかず離れず…そんな関係が成立したら、森林浴ができるような爽やかな空間が生まれてくるのじゃないだろうか。

人という字は、ひとりの人間が両足を踏ん張ってまっすぐ天に向かって胸を張って立っている姿…。

その方がずっと、人と人との関係を表す上でうまくいくような気がする…。
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根本が、欠けている…
[2007/06/21 01:30] 教育・学校
「君が代」斉唱の職務命令は合憲、初の司法判断…東京地裁
(読売新聞 - 06月20日 20:32)

 入学式や卒業式で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったことを理由に、定年後の再雇用を取り消された東京都立高校の元教諭ら10人が、都を相手取り、再雇用職員としての地位確認などを求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であった。

 佐村浩之裁判長は「式典で起立、斉唱することは儀礼的な行為で、思想・良心の自由を侵害するものではない」と述べ、斉唱を命じた校長の職務命令を合憲と判断。命令に反した原告を再雇用しなかったのは、都教委の裁量の範囲内で適法として、請求を棄却した。原告側は控訴する方針。

 都教委は2003年10月、式典で国旗の掲揚と国歌斉唱を教職員に義務づけ、校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問うとする通達を出した。この通達を巡っては、約400人の教職員が原告となった別の訴訟で東京地裁が昨年9月、違憲判断を示している。今回の判決は、都の通達に基づく職務命令を合憲とした初の司法判断で、正反対の結論となった。

☆。・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜☆。・。・゜★・。・。☆


合憲か、違憲か…わたしにとっては、そんなことどうでもいいことなんだよね、申し訳ないけど。

君が代を歌うこと、日の丸に向かって礼をすること。
やれって言われりゃ、やりますよ。ちゃんと。

法律にそったものかそうでないものかなんて、憲法の解釈、言葉の扱い方一つでいかようにも変わっちゃうんだよ。

問題は、そこにはない。
そんな目先のことで…悪いけど枝葉のことでごちゃごちゃ騒いでいる時期ではない。

一番は、「なぜ日の丸君が代がいまだに抵抗あるものなのか」ってことじゃないのかな?

国は「国歌、国旗」として無理矢理位置づけようとしている。
それに対して「横暴だ」と反発するものがいる。

じゃ、なぜそれが「横暴」なのか、なぜそれを「押しつけ状態」で認めさせなくちゃならないのか…。

一番考えなくちゃいけないのは、そこなんじゃないのかな??

日本という国が今までに目をそらしてきた事実が、そこにあるから、みんな隠そう、としているんじゃないのかな。

日本という国が国民を愛おしみ、守り、慈しむ国だったら「愛国心を育てなさい」「国旗、国歌を敬いなさい」なんて強制しなくても自然と大切に思うようになるはずなんだけど…。

そうじゃないのが、事実。

デザイン的には最高に美しくて素晴らしい日の丸がなぜ国旗として認められないのか。
メロディーは覚えやすく日本古来の旋律で美しい君が代を、なぜ国歌として認められないのか。

何でそこに目を向けないのだろうか。そこを考えていくことで日本という国がより素晴らしい国になっていくきっかけが見つかるはずなのに、なぜそこには誰も言及しないのか。

日本の犯した過去のあやまちを素直に認めて、日の丸や君が代に抵抗を持つ人達の気持ちを受け止めて、そうして初めてこれらは「私達のもの」になるんじゃないのか?

そしたら、そのためにはどうしたらいいか、と考えたときに「起立しない」「歌わない」という行為が正しいかどうか、おのずと結論は出てくるのでないか。そして起立や歌うことの強制も、正しいかどうかは結論が出てくるはず、だ。

わたしが教師として、これからを担う子供たちにどうするのが一番良いのか、と考えると…「なぜ」の部分をもっと深く掘り下げて、「これからどうするか」を子供たちと一緒に考えていくことが一番なんじゃないのかな、とおもうのだ。

過去のあやまちはもう取り消せない。
取り消せないあやまちや恥は、隠してしまうことでなくなるのか。
いや、なくならないのだ。

それだったら、隠さないで全部をお日さまの日の本にはっきり示してみて、そして「では、この事実の上にどういう未来を描くのか」を考えていくのが後に続くものの役割ではないのだろうか?

無くすのではなく、それを肥やしにして美しい花を咲かせる。
事実は事実できちんと受け止めるべきなのだ。
その上に美しい花は咲くはずなのだ…。
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教育の場の息苦しさ
[2007/06/15 02:57] 教育・学校
あ~、このブログ、最近放置気味、ですね。
いかんなぁ~。
うつの記録ブログの方も、1ヶ月あけてしまいました。
反省です。

ただ、この間、私の心の中でいろいろな戦いがありました。
一番大きな戦いは、「復職」に向けての戦い、でした。

ご存知の方が多いと思いますが、私は休職中の教師です。
うつでの休職は、2回目です。

1回目は、1年半休んで自分で「戻れそうだ」と思ったところから、職場にお願いして「自主的に」職場復帰の研修を受けました。

2ヶ月、時間や仕事の量を調整しながら、自分で職場に通って体調を整え、そして職場に復帰しました。

けれども、今回の休職からの復帰は、そう簡単にはいきません。それというのも、県の指定で復帰するには2ヶ月の「集団リハビリ研修」を受け、その後に「職場リハビリ」を受け、そして認められないと復帰できない、というシステムができてしまったから、です。

自分で自分の調子と相談して自分から申し出て研修するのではなく、県の定めた決まった研修のサイクルに乗れないと、復帰に向けて動き出すことができないのです。

はっきりいって、これは「うつ病」という病気に対しての不理解でしかない、と思いました。

うつ病というのは、「やらなくてはいけない」という思いが強すぎて病気になる人がほとんどです。その人たちが、「この日までにサイクルに乗らなくてはいけません」といわれて乗る、ということがいかに苦痛か…全くわかっていないから、です。

さらに、その研修はあくまでも「任意」のもの…つまりは「受ける人の意志によるもの」と強調され、そういう文面の書類にサインまでさせられました。これも、とんでもない話です。

休職中に研修を受ける。これ、受けないと復職できないんです。明らかに強制なんです。なのに「あなたの意志だから旅費等出ませんからね」というサインさせられる…。

旅費なんか、いりませんよ。でも、「任意」ってなんですか?
強制で受ける研修なのに、「あなたの意志でやっています」ってサインしなくちゃいけないってすごく苦痛です。事実と違うんですから。

さらに、研修の内容と言えば…「復職します」と言うところまで回復してきた教員に対しての研修ではない…「教育実習生」への指導内容です。

はっきりいって、ここになぜお金をかけるのか…私にはわかりません。

今まで休職していたのだから、当然リハビリは必要です。でも、それはすぐに戻って活動するための助走ですから、それぞれの病状、回復状況に合わせて自分からそれこそ「任意」で行われるべきなんです。

私が以前、自分から2ヶ月お願いしたように…。

しかし、ほぼ強制で行われる研修。内容は正直いって回復するために自分自身でさまざまな研修に自主的に行って学び取ってきたもの。再度強制されてやる内容ではない。そこになんでお金をかけるのか…。

ここに私は疑問を感じるのです。

多くの休職職員がいることは確かです。でも、なぜそのような教員がいるのかと言ったら、それは「予防」の体制が整っていないから、です。

復職しようと思うくらいの教師だったら、自分でここまではい上がってくるはず。そこに金かけるよりも「うつに陥りそうで苦しんでいる教師」のためにお金かけた方がいいんです。今でもきっと、いっぱいいます。苦しんで悩んでいる教師。ちょっと予算が下りて臨時講師にでも入ってもらえたら、どのくらいの教師が休職まで陥らなくてすむことでしょう。

そして、学校の教育は、相変わらずこうやってシステム化することによって教師を型にはめようとしているんだな…ということも身に染みて感じました。

これは、なにも教師に限らず、生徒にも行われていると思われます。

つまりは、「学校」という型からはみ出したものを戻らせるには、再び「学校」という枠の中にはめる努力をさせる…という姿。

学校自体の型が狭くてはみ出した教師や生徒。
みんな違う人間を、同じ型に押し込めるのはむずかしいことはわかっているはずなのに、それに対応する多種多様な入れ物作りの努力なしに、その狭い器に同じように戻そうとすることしかやらないのです。

学校自体はなにも変わらず、もとのまま。
入りきれなかった人間が悪い。入りたかったらこの型の中にまた入り込みなさい、と言いたげな訓練リハビリの強制。

このシステムじゃ、全く人の心など育てられる教育できっこないなぁ…と何ともむなしい気持ちになりました。

けれども、このままただ外から指をくえわえてそれを声高に叫んでいても、「負け犬の遠吠え」にしかならないのが今の現状です。

そう思ったから、あえて「枠」の中に戻る決心をしました。

外からなにしても動かない枠。でも、中からだったら少しは変わるかもしれない。そういう思いがあるからです。

外から見なくちゃわからない、枠の狭さ。
それに気がついてもらうには、外から枠を眺めた人間が、中にもう一度入っていって中から語らねば意味がない。そういう気持ちもあるからです。

だから、会えて、自分では無意味にしか思えない研修も受けることにしました。
受けてみなければ、中に入ってみなければ、批判はできないからです。
実際受けたらいくらでも内容について語れるでしょう。でも、文書に示された内容見て語るだけでは説得力がありませんから。

7月の第1週から始まる「集団リハビリ」。
表面上は「任意」の必修研修を私は受けに行きます。

この経験も、きっとまたうつの記録ブログには良い題材として役に立つでしょう。今の学校教育の抱えている弊害を隅から隅まで知り尽くすための一つの方法として…。



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お願い!一緒に祈って!
[2007/06/02 01:17] 生活・自然
私のブログをいつもお読みになってくださる皆様に、お願いがあります。

ちょっとの時間でいいのです、一緒に一人の闘っている人のために祈ってくださいませんか?

命の灯火を見つめて、今一人で闘っている一人のお友達がいます。
彼の体をむしばむ病…一度は治ったはずなのに、再発した病。

痛いほど家族を思い、愛しているのに家にも帰れずに病院で一人闘っている彼のために、どうか皆さん、一緒に祈ってもらえませんでしょうか?

彼について、私は多くを語れません。
彼の闘ってきたその後について、彼自身の思いが綴られたブログがありますので、それを読んで彼を知ってください。

希望の国のエクソダスⅡ

いま、『死』と直面しながら、自分の命を見つめ、抱きしめて闘っている彼…私達まわりのものは、ただ祈るしかできません。
でも、その彼の思いに寄り添って、少しでも祈ることで彼の力になれたら、と願わずにはいられないのです。

心の中で、小さくてもいいから…一緒に祈ってください…彼のために…。

よろしくお願いいたします。m(__)m
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