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  2007年03月  

             
言霊その1 「かわいそう」
[2007/03/29 17:45] 教育・学校
以前、ある同和の研究授業を見たことがある。

その授業は「道徳」で、どうしても走るのが遅いある子どもに対してクラスとしてどう見守っていくか、というテーマでの話し合いが行われていた。

その子と一緒に走る、ルールを変える…いろんな意見が出てくる中でとても気になったのが「かわいそう」という言葉だった。

研究会では、「同和」という観点から「かわいそう」という言葉が出たことについて非常に先生達は高く評価していた。しかし私は全く違う意見を言ったのでみんなが驚いたような顔をしてこちらを見ていたのを覚えている。

「かわいそう」だといわれたその子は、はたして嬉しいだろうか?
自分に合わせてみんながルールを変えたり一緒に手をつないで走ってくれることが、はたして本当に嬉しい気持ちになることなのだろうか…。

私は「NO」である。

私も走るのは遅かった。体力もなくてマラソンになると最後まで走るのはとっても苦しかったからいつもビリだった。

だからといって、自分だけ特別にルール作ってもらったら…誰かが「一緒に」ガンバレって横を走っていたら…「かわいそうだから」これらのことが行われたら、私はきっと自分を惨めに感じるだろう。自分の運動が苦手なことを思い知らされて、もう二度と走りたくない、と思うだろう。

「かわいそう」というのは、一見同情してその人の思いに寄り添っている言葉のように見える。しかし、その奥の気持ちは同じ視点に立っているわけではない。「上からの」ものの見方なのだ。

よく思いだしてみて欲しい。
自分が「かわいそうな…」と表現するときには、自分もその状況に陥っているのだろうか?いや、大抵は自分はそこには直接関係ないことが多い。

要するに、自分が何とかしなくてもいい状況で自分は何ともない状況で発せられることが非常に多いのだ。

「上から、下のものを哀れんで言う言葉」…それが「かわいそう」なんじゃないだろうか?

同級生に対して「かわいそう」という気持ちの奥には、「自分はできるのに、できないあの子はかわいそう」という気持ちが働いているように思えてならなかったのだ。

本当に相手のことを思えば、かわいそう、なんていう言葉よりもまず「何とかしなくっちゃ」と思うはず。「何ができるだろう」と考えるはず。

そして、その結果相手が自分で何とかすることが必要だと思ったら、何にもしないで見守っていることもまた強い愛情の表現のはず。

相手にどうしてもできないことがあって、自分の手が必要だと思ったら、できる範囲で相手の力になれるように支えるのも表現のひとつ。

厳しい言葉が必要なときもあり、黙っているのが必要なときもある。放っておくことが必要なときもある。

それはみんな「相手の立場に立って」「相手の必要に応じて」行われるべきであって、そこには「かわいそう」という思いが存在する場所はないのじゃないだろうか。

「かわいそう」という言葉は、教育現場には必要ないのではないか…私はそう思う。

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