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  2007年02月  

             
「教育」はもうおしまい~生徒指導編2
[2007/02/23 11:21] 教育・学校
さて、先頃「君が代の伴奏拒否」してやめさせられた先生の裁判での敗訴が決まった。

これについては、詳しい状況がわからないから何とも言えない。
それから、君が代や日の丸問題でもいろいろな意見や考え方があるから、「こうあるべきだ」などということは出来ない。

ただ、私はこうしてきた、という話なら出来る。

私は「国から」「行事に君が代斉唱を」との「指令」が来たときには、正直いって反対した。
この敗訴した教師と同じ「音楽教師」であるので、当然「全校に指導」「音楽でも指導」「行事では伴奏」というものがセットになって私にのしかかってくる。その仕事が増えること自体はそうたいしたことがないけれども、問題は「国からの指示」で「強制」のイメージが強かったことと、それからその中には「君が代」や「日の丸」の背負ってきた物に対しての認識が感じ取れなかったからだ。

というのは、君が代も、日の丸も、非常にシンプルで美しい物である。けれども、国歌として、国旗として正式に制定されていなかったこと、それからもう一つは、「戦争」の時に誤った解釈をされて利用され、それ故にこの歌やこの旗を見て「心が痛む」人々がいる、ということに対してのフォローがなにもない…逆を言えば、これを「強制」することで「昔の日本のあやまち」を繰り返す思惑があるのではないか、「昔の日本のあやまち」に目をつぶってしまうことになるのではないか、という危惧を感じたからだった。

何人か同じ気持ちの先生達と職員会でそれを訴えたが、問題にもされず、いつの間にか当たり前のようにこれらが行事では使われるようになっていった。

しかし、「学校」という場に勤めている以上は、職員会で決まったらちゃんとやらなければならない。もし、その事でごたごたしていやな思いをするのは生徒なのだから。だから、私は「君が代」の指導の場に立った。

それに、いけないのは「君が代」ではない。「君が代を利用してきた歴史」にあるのだ。だから、これだけはきちんと生徒に知らせなくてはならない。それが「先生」の仕事だ…。

「君が代」は非常に美しいメロディーで、言葉も覚えやすく、教えはじめると生徒たちは時々廊下でも歌っていることがある。これだけなじみある歌なのだから「国歌」としては適しているのだろう。

しかし、戦争中はこれを「天皇をたたえる歌」だと解釈し、「国のために尽くせ」という意味合いで歌わされた。日の丸はそういう日本の象徴であって、今まだ残る戦争の傷跡が、この歌やこの旗を見ることでうずく人もいるのだ。

そういう「歴史的背景」を無視してこの歌を気軽に歌うことはできない。

だから私は、必ずこの曲の指導の時にこういう話をすることにした。この美しいメロディー、この美しいデザインの物たちも、「戦争」という誤ちの中で利用され、泥を塗りつぶされた時代があったこと、もう二度とそういうことを繰り返してはならないこと…。

そういう気持ちを生徒に伝えてから私は君が代を指導した。行事の場でも、そういう思いを込めて伴奏してきた。


「生徒の指導」をすることは、単に「強制」すること、「決まりだから守りなさい」と押しつけることではないと思う。

たとえば、身近な話題で言えば「たばこ」。

先生の中でも吸っている人がいる。なのになぜ僕らはいけないの?
そういう疑問に「決まりだから」「未成年だから」という指導は意味がないように思う。

私は、たばこを吸わない家族の中で育ち、のどが弱くてたばこの煙は嫌いだった。だから別に吸いたいとも思わず、むしろ避けてきた。でも、大学の時に、何かのおりにちょっと吸ってみて、「たばこって心が落ち着くんだ…」と思った時期がある。むろん、その時期が過ぎたらちゃんとやめることも出来たけれども。

それからは、私は単に「ダメ」と拒否することはしなくなった。

何でも「悪い」ことはないのかもしれない。ただ、「なぜそれをしたか」「それをすることでどうなっていくのか」が、まだ経験の少ない生徒たちにはわからないことも多い。

それを「語り合う」ことが先生の役目じゃないだろうか。それが「生徒指導」の本当の意味じゃないだろうか。

小学生も、中学生も、「子どもだから」という目ではなく「同じ人間だから」という視点で見ると、結構しっかりと物を考えているのだ。その生徒たちに対して「単に上から押しつける」だけなのは「指導」ではない。

生徒たちに自ら考えさせ、どうするのが自分にとって一番良いのか、という結論を一緒に考えていくのが「指導」なのではないか、と思う。その中では先生は「自分が」という意識ではなく、「自分はこうするけど君たちは?」という視点でそれに当たるべきじゃないかと思う。

「君が代」を弾かない、というのは「人間としての思惑」ではあるけれども「先生」としては適切な行為であったとは私には思えない。そこには「生徒」という大切な者たちへの視点が考えられないからだ。

「先生」である以上は常に「生徒」を意識した「指導をする」ことが必要なのではないか…と思う。一緒に考えていく、という行為が必要なのではないか…と思う。




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「教育」はもうおしまい~生徒指導編1
[2007/02/21 10:16] 教育・学校
さてさて、「教師」であるか、「先生」であるかの違いが大きく出るのが「生徒指導」の分野ではないだろうか。

一般的には「たばこはダメ」とか「髪を染めるのはダメ」とか「ピアスはダメ」なんていうものから細かいものは靴下の膝下の長さとか色とか、スカート丈とか髪の毛の長さとかそんなものまで決まっている学校もある。

この「学校独自の決まり」にしたがって「生徒指導」がなされるんだけど…これほど指導する人によって一貫していないものもないと思う。

制服が決まっていて、たとえばシャツの第1ボタンがとまっているかいないかで厳しく注意する人がいるかと思えば、学校中のガラスを割ってもおおらかに対処する人もいる。

生徒指導の基準というものははっきり言ってない。
あるとしたら、個々の人間の「道徳観」とか「経験」とか「社会観」なのだ。

ところが、学校というのは「担任」がクラスの子どもに対して大きな権限を持っているから、この担任のそういう価値観や規準によって、生徒指導が大きく変わってくる。もうちょっと言えば、担任を見とって学校をまとめる立場の校長や教頭、教務主任によって学校の先生達にどんな声がけがなされるかにも大きく左右される。

また、もう一つ言うと学校を取り巻く社会…特に保護者の意識も大きく関わってくるのだ。

この辺が問題じゃないかと思っている。

「学校」という「社会」に出てきている以上は、「学校」の「決まり」に基づいて生活するのは当たり前だ。それは当然無ければ単に無秩序に各自が好き勝手にやりたい放題で「学ぶ」という行為からはかけ離れている。

たとえば授業中に、他の人の迷惑になるような行為はしない。これは「人の学ぶ権利」を邪魔することは出来ないからだ。だから大声で騒ぐとか、暴れるとかはもってのほかだ。

「時間を守る」ことだって必要だ。
決まっている授業の時間に遅れることは、その子個人の学ぶ権利の放棄であることとともに、他の子の学ぶ気持ちを阻害し、授業の流れを分断する。

そして、人(自分自身も含めて)を傷つけること…体の傷だけでなく、心の傷も…これは絶対にしてはいけないことだ。

「人間として」「社会生活をする上で」必要最低限の決まりは当然出てくる。

これらのことをふまえた上で、学校は成り立っているから、これを守ることは当然なのだ。

では…「必要最低限以外」の部分の決まりはどう指導していったらいいのか。

ここが先生の専門職である力量を発揮するべきところだと思うのに、これに関する指導は教職を取る課程ではほとんど触れられていないように思う。そして、学校内でもこれにつて学び会う機会はほとんど無いように思う。

しかし、この分野はもっともっと大きく変わっていくべき分野だと思う。

学校には、いろいろな年齢層の人間が存在する。
一般的に、管理職の人間はある程度経験を経てきた者がなるからやはり年長の先生がなることが多い。

その管理職を筆頭に、大学出たての新卒の人間までありとあらゆる年齢層が存在する。そこには独身もいれば家族持ちもあり、みんな経験がまちまちなのである。

そしてさらに…「学校で育てるべき存在」の生徒たち。
もう一つは…生徒の親たち。

そして、生徒が生活している、その学校の学区内の人々すべて。

これらの人間が全部「学校」に関わってくると考えると…その年齢層や経験値や物の価値観は多種多様。十人十色どころの話ではない。ひとりにひとつの価値観ならまだ救われようが、それぞれが絡み合ってまた複雑な構造を生み出しているから単純には行かないのだ。

これらのすべての物を総括し、まとめ上げていかねばならないのだから「学校」での価値観がいかに大切で大変であるか想像に難くないのではないかと思う。

これをまとめ上げるのは、学校の力量ひとつにかかってくる。
ところが、その学校の中で実際指導に当たるべき人間たちにも、本当にいろいろな人間がいて「キャパシティー」の差が大きい。

「キャパシティー」には二つの意味合いがある。
ひとつは「能力」。そして「容量」。

そう、この二つともが大きな要素となってくる。

生徒に対して、面と向かって対峙し、そして「ともに学ぶ場」で生活する上での必要なコミュニケーション能力を育てていくことの出来る「能力」。
それから多種多様な生徒や、保護者の価値観に加えて学校の周りの地域の人たちや管理職、周りの先生達のもつさまざまな価値観と自分の価値観を収容できる人間としての心の「容量」。

どちらにもしっかり対処できなければ今の時代の「生徒指導」は出来ない。
(今の時代は「生徒指導」の中に「保護者指導」も含めて考えねばならない。)

そうしたときに、「教師」の立場から下りることの出来ない人は「能力」はあっても「容量」不足になる。そう、自分が「教える立場」だと思っていると、「教えるテクニック」は持っていてもそこからはみ出した生徒には対応できないのだ。

この「容量」を広げるにはどうしたらいいのか。
「先生」の立場だったら、それが出来るのだ。「先に生まれて生きている物」としての自覚を持ち、けれども「生徒」…「生きている同じ人間」という認識に立って生徒と同じ目線で学び、考える姿勢を持っている人はちゃんと生徒の気持ちをくみ取ることが出来るのだ。

「教師」は絶対だ。自分の容量で物を考えてその物差しと決まりとで「教える者」だから「学校の決まりを守らなければ悪い」で済んでしまう。

しかし、「先生」だったら…「この子は、何でこういう行為に出たのだろう?」と、まず考える余裕がある。「先生」も人間で、共に学ぶ者だから、「なぜ?」が先に立つ。それだけでも大きな違いが出る。

「髪の毛を染める」という行為1つとっても、「格好いいから」染めている子と、「何となくやってみた」子と、「自分を変えてみたくて」染めている子では行為の目的も行為に対しての意識も全く違う。

これを単に「決まりでいけないことになっているから」と一緒くたにしてしまっては「指導」にはならないのだ。「こういう行為をするに至った思い」を感じ取ること無しには、「ではこうすればいいのではないか」という方向を示すことは出来ないのだ。

この、生徒の思いをくみ取って話をしていく中でそれに関わってきっといろいろな友だち関係とか家庭環境とか…本当にいろいろな要素が出てくる。この要素を全部ひとりで何とかしようと頑張るのは無理があるから、ある程度専門家に任せた方が良い部分は、専門家に任せる。この辺の見とりと切り替えも、出来なければ大変だ。「自分で何とかしよう」とひとりで走り回って、挙げ句の果てが手に負えなくて収集つかなくなる…という事例もたくさんあるから。

保健室の先生をはじめ、スクールカウンセラーの先生、管理職の先生達、図書館の先生、地域の人、親御さん。時にはクラスの友だち。そして他の教科担当の先生。部活の先生。その子に関わるすべての人間。

みんなで少しずつ、その子の持っている「抱えきれない物」をおろしていってやることが出来たら…それはすばらしいことだ。

その子が変われば、周りも変わる。その子が変われば、その子に関わった物みんなが変わる。それこそが「共に育つ」ことなんだと思う。

「生徒指導」という言葉から受けるのは、「する物」と「される物」という上下関係。しかし、これを「一緒に考え、学んでいく」気持ちに切り替えていったら…もっともっと違う物になっていくのではないか。


今の学校の現状は…それにさく「時間」が少なすぎる。

しかし、日頃からのこういった「先生」の姿勢ひとつで同じ一分もかなり有意義な時間と変わっていくのではないだろうか。



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「教育」はもうおしまい~研究授業編
[2007/02/20 15:43] 教育・学校
「教案」と同じように、時間をかけている割には無駄だと思う物。

「研究授業」。

これ、「授業研究」じゃないところがミソですね。
「研究授業」というのは今まで体験してきた物は大方が「研究のための授業」でしたから。

あくまでも「研究のため」であって「生徒のため」になっていないんです。

先生達はたいてい何らかの研究グループに配属され、そして一年間かけて「研究」を勧めます。この研究…今までの体験でしか言えませんが、「研究のための研究」になっていたように思えます。

要するに、「研究会」で「良い成果」を発表するための研究。
まあ、「成果」が出ないと「失敗」と位置づけられてしまうのですから、そしてまた、授業者の実力がない、といわれてしまうのですから、みんな必死なのは仕方ないですけどね。

そして、「良い成果」を出すために、「普段は出来ないような」課題に取り組んだり、「普段とは違った」ことをやろうとする。

結果…たとえばその授業が「成功」したら、授業者および研究主任を初めとするメンバーは賞賛され、「成果が出た」とほめられ、場合によっては論文発表したりどこかで活躍の場を与えられていきます。
「失敗」したら…それが校内だったら、授業者の実力不足、と非難されるかたちになるのかな…結果としては。そして研究主任は面目丸つぶれでその後は…くらい研究会のまとめが続くんですね。これは正直いって、地獄です。

そして、この「成果」が「生徒」に与える影響はというと…今のところは…あまり私は感じていないですね…。そういう「研究授業」にであってこなかったせいかもしれませんし、そういう研究の場に出会えていないだけかもしれませんが。

少なくとも私自身は、「研究授業」をやって、もしくは「研究授業と研究会に参加」して、「これが出来るようになった」とか「こんなことを授業に生かしていこう」と思うようなことは…今までになかったです。悲しいことに。

特に、研究会の規模が大きくなればなるほどそうですね。
「市の指定校」とか「県の指定校」とか「国(文部省…当時は)の指定校」とかみたりなったりしてきましたが、規模が大きくなればなるほど、「普段の授業」とはかけ離れて「気軽に出来ない」ことや「気軽に使えない機材」を使った物が多くなります。

指定校になると、その分の予算も多く配分されますから、機材や教材を購入できるという+の面はあります。だけど、その機材が自分の学校に戻ったときにあるかというと…残念ながら無いことが多いのです。

パソコンしかり、楽器しかり。
研究校の機材や教材は非常に華やかで派手ですし、先端を行っていますが、「自分の学校にはない」のでそれを使った指導は出来ません。結果として「使えない」資料を山ほどもらってきて、「あんな機材があればな~」という悔しさがつのるだけなんですね。

これは「研究のための研究授業」が当たり前になってしまっている弊害だと思います。

成功したら、それを他の人たちの成功にどうつなげていくのか、失敗したら、その失敗をこれからどう生かしていくのか。それが生徒たちへの研究の「還元」であり、それをして初めて「研究」が「授業のための」になっていくのですが…残念ながら、なかなかそこまでには至りません。

仕方ないのです、だって研究授業を見に行っても、初めての子供たちを見とってそれまでに積み重ねてきた物をたった1時間かそこらでみんなで批評しあうんですから、「実のある」時間になるはずはないのです。

正直いって、私はもう「研究授業」はやめたらどうかと思います。
それよりも大切なのは、「授業研究」。

単に単語をひっくり返しただけではないんですよ…「授業」を研究して生徒のために「生かしていく」のが授業研究なんですから。

たとえば…今まで「研究」に費やしてきた膨大な時間と費用をみんな「生徒のため」の時間に充て、教材に使う。そして、「教案」などという物は作成しない。

あるのは「主眼」と「手だて」。そして生徒にあった「教材研究」。

先生は、日頃の授業をそのままする。見に来る人は、それを真剣に見とる。
たとえばそのクラスは、学校の中で「大変」と言われているクラスでもいい。担任が悩んで苦しんでいるクラスでもいい。そういうクラスこそ、たくさんの「学ぶべき物」が転がっているのですから。

見る人は、生徒も先生も、一生懸命なその気持ちを尊重して真剣に見て、「自分だったら、この場面、この生徒にどういう声がけするだろう」という観点で見る。そして「この生徒はなぜ、この先生の言葉にこう反応したのだろう」「この先生は、こういう声がけをしているが、どういう思いと願いがあったのだろう」「このクラスのあり方で、自分たちのクラスに参考になるところはどんなところだろう」という観点で見る。

せっかく1時間かけてみるのですから…その時間、他の生徒は「自習」になるのですから、それくらいの「敬意」を払って授業を見、そして「自分のもの」をつかまなくては無駄な時間になってしまいます。

そして、研究会は…「その授業」の評価や批判だけに止まらず、「実際に自分でこの子とをクラスでやってみたらこうなった」とか「この生徒に違う教科で関わって、こういう言葉がけをしたら意欲的になっているみたいだ」とかいう「成果の発表会」(もちろん、自慢大会じゃありませんよ。)にしていくべきだと思うのです。

だから、研究会は授業の一週間後くらいにしてみたらどうでしょう?
その日各自が学んだものや得た物をしっかりと記録して、それを元にその一週間にやってみたことも記録して、各自がそれを持ち寄って、各クラスの実情と照らし合わせて話し合いを持つ。

「授業クラス」の生徒はやはりその場で初めてであう子どもが多いのですから、その場でそのクラスのあり方を言い合っても無理なのです。その1時間だけですべての子どもを見とることなんて、人間できっこありません。だって、先生も人間で、ひとりひとり物の見方考え方違うんですから。

「授業で見たこと」を、各自、自分の範囲でやってみる、それで初めて「授業を見た」意味があるんです。実際に同じようにやってみたり、同じように悩んでみたりしてはじめてその授業に対しての立場が同じになるんです。

ここにも「共育」の姿勢、「学育」の姿勢を持ち込むべきなんです。

研究会は今まで、たいてい授業者と参観者、という「立場の違い」の中で行われてきました。そこからもう間違いなんだと思います。「評価される物」と「評価する物」との間にはすでに意識のくいちがいが生じてくるのですから。

そうではなく、「同じように毎日生徒と向かいあっている物同士」の会にしなくては、みのりのある物にはならないでしょう。

教案をいくら頑張って書いても、ほとんどの参観の先生は隅から隅までは目を通せません。そして、その授業が終わったらまた見直す先生はほとんどいないでしょう。それに時間をかけ、そしてそういう授業を作り上げることに研究という時間をかけることはやはり無駄だと思うのです。

どうせだったら「生きている生徒」を相手にもっと考える時間が欲しいです。
そして、見た生徒だけでなく、自分の生徒にそれを試してはじめて「成果があるかどうか」がわかるのですから、それから「授業についての研究」をするべき何です。各自、「自分のレポート」を持ち寄って、同じ位置に立って、同じ目線で研究をしなければ、成果は生徒には返らないでしょう。


「研究授業」はもうやめませんか?「授業研究」もっとやりませんか?
私は、授業研究だったらいくらでも時間をかけてしたいと思います。



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「教育」はもうおしまい~教案編
[2007/02/19 00:35] 教育・学校
教育実習の時、一番時間をかけて指導されたのは何かというと「教案を書くこと」だった。

授業の主題、目標、注意事項、予想される生徒の反応、そして板書計画や発問の言葉まで事細かく授業の前に書くことを要求された。

こういうことは苦手ではなかった。
ある程度頭の中でテーマをまとめ、子供たちの顔を思い浮かべながら発問や板書することを書いていく。
時間はかかる作業だったけれども、でも嫌いではなかった。

そして思いつく限りの準備をして教材研究もし、毎回授業に臨んでいた。

しかし、指導教官からの評価は、
「きみは、指導案はいいけれど、実際の授業との差が大きすぎる」
だった。

しかし…考えてみれば、これは変な話なのではないかと思うのだ。
確かに、経験も浅く実際に指導するのに時間がどのくらいかかるのかもまだ見当もつかず…その実習生にとって「教案通り」に事を進めることはやはり至難の業なのだ。

さらに、もう一つ「教案」があることでしばられるのがいやだった。

生徒たちはクラスに30人以上いる。
30人いれば30人の生き様がある。
けれども指導する私は私自身の体験してきたことしかわからない。

そうしたら、教案…自分の体験、自分の学んできたものの範囲でしか書けないこの指導案どうりに物事が進むはずがないのだ。

けれども、「指導案」という「目安」…というか「達成すべき目標」があるとしたら、なるべくそれに添った授業を…最初のうちはそう頑張ってみたものの、それにしばられていると生徒の「突発的な発想」や「思いもかけない反応」のひとつひとつを見落としたり、対応できなかったり、残念に思いながら切り捨てたり…そのたびに胸が痛かったのでそのうち私は「指導案」は完璧に書いてほめられたとしても、それに捕らわれることはやめようと思ったのだ。

まじめな私の指導教官はそんな私の授業を渋い顔で見ていたけれども、もうひとりの教科の先生(他の教生の指導教官)は結構おおらかに喜んで見てくれて、「面白いよ」と言ってくれたので救われたのかもしれない。

教案というのは「机上の指導」であって、実際の授業は「生きている生徒との人間同士のやりとり」なのだから…その通りには行かなくても最後に「目標(主眼)」を達成できればそれで良い…私の実習中の体験は、それ以来ずっと今まで私の中につながって来ているのだ。

実際、その考え方で授業に臨んだ方が生徒がずっとよく見える。
「私にとっては」教案はかえって「目隠し」になってしまうことがよくわかったので…じっさい、「先生」になってからも、やはりそれは何回も身に染みて感じたので…私は「机上の理論」である教案はあくまでも「目安」にとどめることにした。

そして、教育実習の時にもっと知りかかったことは…「教案の書き方」ではなくて「実際の生徒に対してこんな風に対応する」という指導教官の体験談だったのだけれども…それは残念ながら教案指導の時間にほとんど費やされてあまり聞くことは出来なかった。

このあたりの実際は、今はどうなっているのだろう?
もうかなり昔の思い出だけど、でも、あまり変わっていないのかもなぁ?と言うのを新しく採用される先生達を見ていても感じることが多い。


あと、もう一つ…。

「机上の空論」よりも「生徒との実際」を学びたいと思うのが「研究授業」なのだ。

これも教案がらみなのだけど…研究授業。これに割く時間がもったいないと思う私の思いはまた長くなるので、研究授業について語るのは次のブログにまわそうと思う。

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「教育」はもうおしまい
[2007/02/18 01:30] 教育・学校
「教育」は、もうお終いにしませんか?
もう古いと思いませんか?

最近の教育問題…教育基本法の改正に始まり、ゆとり教育の破綻、いじめ問題や不登校…。

こういうことをどうしていったらいいのかを考えていくにつけ、どうしても引っかかっていた思いが今日、「教育」という言葉を「破壊」することで解決するのでは?とふと思ったことでスッキリとしたのです。

今の世の中、価値観は多種多様。そして家族のあり方も千変万化。
そんな中でいつまでも「全国で均一の教育をする」という考え方自体が古いよな…とそう思っていて引っかかったのが「教育」という言葉。

「教育」…「教えて育てる」という意味のこの言葉は、あくまでも立場が二分します。
「教える者」と「教わって育ててもらう者」…そう、この二者の間はあくまでも「上下関係」であり「与える者」と「受ける者」というポジティブとネガティブの関係を表現している言葉じゃないかしら…。

そう考えると、「教育基本法」だってあくまでも「教師が生徒に物を教える」という姿勢に一貫し、さらに言うと、「国から指定された事柄を生徒に教える」という常に上から下への意識の流れしかないのです。

そう思ってみたら、今の日本の教育現場の状態も…さらに行くと日本の社会の構造も…みんなそうなっているような気がします。

政治の世界もそうです。上から下への流れ。
…逆の流れである「民意」の反映は非常にむずかしいことになっています。

わたしは、教職に就いたときから…いや、教育実習の頃から、あくまでも「生徒と一緒に学ぶ姿勢」を大切にしたいと思っていました。

教員採用試験の面接の時に、「わたしは子どもを叱れません」と言って面接官に「なぜ?」と聞かれて「自分だってまだ人間として完全じゃないのに、完全じゃない自分が生徒を怒ったり叱ったり出来ないと思います。」と答えました。

今も、その気持ちは変わりません。

教える側だって、完璧じゃない「人間」なんですよね。
足りないところも、欠けているところも、あって当然なんです。
ただ、生徒よりも長く生きている分、経験があり、知っていることが多くて、生徒に示せる道筋が多い、というだけなんです。

だからわたしは「先生」になってからもいつも「生徒と一緒に学び高まっていく」立場でいるように心がけていました。

「先生」はさっきも書いたけど「先に生まれた」だけであって、決して人間として秀でているわけではないのです。

同じように、「生徒」も「生きている者たち」なんですよね。

「共に生きる」って考えたらこの関係は素敵な関係です。

なのに、「教育」って言葉で「上下関係」にねじ曲げられてしまっているからおかしくなるんです。

「教師」だっていつまでも「学ぶ人」であるべきです。だから「すべてを教える人」になれるはずはないのです。「生徒とともに学ぶ人」でなくちゃ、成り立たないんですよ…「学校」はね。「学ぶ場所」なんですから。

そうしたら「教育」という観念はもうおかしいと思うのです。

「教えて育てる」のではなく、「共育」…「ともに育つ」場であるべき。さらに「学育」…「学びながら育つ」場所であるべきなんだと思います。

そして、生徒にとっては「教室」は「学ぶ場所」であり「育つ場所」であって、「教わる場所」じゃないんですよね。だから「教室」という言葉も何か変だと思うのです。

学校は、生徒にとってはひとつの社会です。
社会に出たら、上下関係も大事ですが、それよりももっと「自ら生きる力」の方が大事です。「教師と教え子」という関係ではなく、「先生と生徒」の関係であり、その中でお互いの存在をきちんと見つめ合いながら、人格を尊重しあいながら「先生」は先に生まれて得た知識や経験を生徒に示し、たくさんの選択肢を生徒に見せて、その上で「生徒」はその選択肢の中から自分が「生きる」ために必要な物を選び取っていく。

けれども時代の流れとともに「先生」の持っている知識や経験が追いつかないこともある。その時は「生徒」とともに、「今」という時代にあった生き方を一緒に考えていく。当然、「先生」も一緒に「学ぶ」必要だってあるんです。

これが、本来の「学校」の姿じゃないでしょうか?
ここには「上下関係」は存在しないのです。
「学ぶ」ことに関して、先生も生徒も対等な場なのだと思います。

「教育」という言葉は、こういう意識を薄れさせ、忘れさせる言葉じゃないのかとわたしは思うのです。

「ゆとり」だって必要なことだったはずなのに、なぜひん曲がってしまったか、失敗してしまったかというと、「ゆとり教育」という風に、「教育」という言葉がくっついていたからではないでしょうか?

「ゆとりの学習」は「教えられて」身につく物ではないはず。その本来の姿を「教育」という言葉で「上から下へ」伝えるべき物としてしまったことに、根本的な間違いがあったように思います。


「教育」という言葉は、もう無しにしませんか?
この言葉から生まれてくるのは、今や弊害だけしかないように思えるのです。

「学校」は「教えられ育てられる場所」から本来の「学ぶ場所」へと戻してあげませんか?

それが出来なかったら、もうこれからの日本の「学びの姿勢」は破壊されていくだけだと思うのです。「改革」なんかできっこないし、社会も変わらないでしょう。


もうちょっと書きたいことがあるので、この話題、数回続くかもしれません。
よろしければおつきあい下さいませ。




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投票率アップと政治家の質アップ
[2007/02/17 13:35] 生活・自然
マイミクの夢世さんの日記を読んでふと思ったこと。

選挙になぜみんな行かないか。

答え…つまんないから。

なぜつまんないのか。

答え…自分の一票の意味を感じないから。もしくは、入れたい人がいないから。


さてさて、毎回「義務」兼「責任」だと思っていく選挙ですが、残念ながら「権利」だと思えた選挙はここのところ全くありません。

なぜかというと、候補者に魅力がない…なにやっている人だかわからない…一体なぜ政治の世界に入ろうとしているのかもわからない。

だから「この人に任せたい」と思える候補者がいて行った選挙がほとんど無いのです。顕著なのが長野県の知事選挙。

田中知事と現在の知事の選択肢二つ。
「どっちか」って言われて…どっちも選べませんでした。

田中知事の「新しい風を」というわかりやすいスローガンと「やってくれそう」という期待で最初は「選ぶ権利」のあることを嬉しく思って投票した知事選でした。

ところが…言ってることはわかるし、やろうと動いていることもわかりましたけど結果が出ない。独断で動いて独りよがりの印象が否めない。

対してもうひとりの候補である現知事(あまりに独創性が無く、名前覚えていません。。。)は、明らかに「旧体制」を背負って「反田中」の風にあおられてひょろひょろと舞い出てきただけの印象。

任せたい、という気は全く起きず…そして絶対に昔に戻るという危惧もあってこちらにも投票する気になれず…。

結局、「白票」という形で抗議の気持ちも込めて投票したのですが…。
残念ながら「白票」は数は発表されないのですね。

その時に漠然と思ったのです。
政治に一番みんなが近づける「投票」で、「選ぶ人がいない切なさを訴える機会」って言うのがないのかと。

もう一つは、「選ぶ人に○」つけるだけじゃなくて、「任せたくない人には×」つけちゃいけないのかと…。

せめて、そのくらいの気持ちを表現する場であったら、投票ってもっとみんな行きたくなると思うんですけどね…。

で、当然○を集めただけでなく、×の分だけそこから差し引いて得票数を決める。白票もちゃんと発表して、○、×、白票含めてきちんと毎回選挙の分析をする。

そしたらもっと「選挙」で「民意」が「手の届かない政治」に届きやすくなるんではないかと思った次第。

自分で候補者を立てることはとてもたいへんですが…でも「擁立された候補者」の中から選ぶ権利をまだ残しておいてもらえるのなら、そうするのが妥当じゃないか、と思ったりもします。

2世議員…なんて本当に変だと思います。世襲の政治って何だろうと思います。でも、そのくらいのバックボーンがないと立っていられないのも政治の世界の事実なら…その世界に「×」や「白票」という石を投じることくらいは許してもらえてもいいような気もしますが…。

ただ○をつけて選ぶだけの投票は、まるでみんなに一等賞をあげている本当の意味で評価していない運動会のかけっこと同じような気がして気持ちが悪いです。

現県知事に対してももうむなしさしか感じていません。
明らかに「反田中」と言うだけで当選した現知事のやっていること…鬼の首とったように、議会と一緒になって子どものケンカのような…いや、もっと陰湿な何かを感じて気分が悪いです。

こんな多様化した時代…価値観もなにも、全く変わってきているこの時代…「選挙」という「日本の代表になっていく人たち」を選ぶ方法だって、もっと変わっていくべきなのじゃないでしょうか?

…とは言ってもこの「選挙法」を変えるのも政治家ですから……期待は全くしていませんけどね。(^_^;) なんかむなしいです。

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よくぞここまで…
[2007/02/16 21:13] 生活・自然
しばらく家を離れて外出していた間に、だんなから携帯にメールが届いた。
メールの題名は「プレゼント」。

何だろうと思ってメールを開いたらこれが張り付いていた。
大笑いして、そしてなんか嬉しかった。

20070216210245.jpg



何でだろうね、ネコの寝顔って脱力するんだよね。
ほわ~~~~って気分になって、肩の力が抜けてきて、すっごくあたたかいきぶんになれるの。

ドアップだと不細工みたいだけど、離れて見るとちゃんとかわいいですよ~。
この前、とった写真はこんな感じです。

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全く警戒心無く心地よく寝ています。
ネコの寝相って本当に笑えます。

でもって、ついお腹にモフモフしちゃいたくなります。(笑)

このアミーゴ、ずっと前の日記に書いたけど家に来たときは瀕死の子猫でした。
クビが反っくり返って全く歩けなくなっていて、おしっこまみれでもがいていたあの子がこんなになったのか~、と思うと感慨もひとしお。

よくぞここまで元気で丈夫に育ってくれました。

ず~~~っと前のようやくちゃんと立てるようになったアミーゴは、こんな感じでした。


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こうやって座っていても、歩き出すとひっくり返っちゃうんですけどね。
でもちゃんと座ってくれたときも、すごく嬉しかったです。

家に来て、一年と3ヶ月。
怪我して動けないときでさえ、獣医さんに対して敵意丸出しで怒りっぽい子だったんだけど、今なんかもう怖いもの無し。
うちの中で一番えばってすぐに怒ってかみついたりひっかいたりします。

でも、そのくらいの「強さ」があったからこそ、あの状態からここまでになったのかもしれませんね。

今はちょうど人間で行くとガキ大将くらいなのかなぁ?
やんちゃで怒りんぼだけど、ちょっと甘ったれで…見ているだけで癒してくれるアミーゴくん、もうちょっと大人になったら紳士になってくれるんでしょうかね。(笑)



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ハッピーバレンタイン
[2007/02/14 12:29] 生活・自然
聖バレンタインが殉職したこの日。

「愛」をテーマにしたこの日。

別にチョコを配る日ではありませんが、
「感謝」と「愛情」を何かに込めて送るならOKだと。(^_^;)

そんなわけで、皆様、ハッピーバレンタイン!

♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥♥
(一応ハートチョコのつもり)

愛をこめて、日ごろの感謝とともに皆様にお届けいたします。(o^-^o)
素敵な1日でありますように。
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知恵熱
[2007/02/13 14:08] ひとりごと
この年になって、『知恵熱』が出ました。(笑)

朝からずっと寝ております。
たぶん、この頃いろいろありすぎたから心が加熱しすぎたのでしょう。(^_^;)

まあ・・・とりあえずは何とか元気です。

わたしはネットでたくさんのお友達とつながっているおかげで、寝ていてもちゃんとみんなの声が聞こえるのが幸せです。

SNSなんかで吐き出す場があるのがまたありがたいですね。

パソコン通信の時から、こういうひろいいろんな世界を知っている人たちとのつながりは、すっごくたいせつなたからものでした。
それは今も同じです。

とりあえずは『寝てろ!』ってことだと思うので、今日はのんびりと寝ることにします。部屋、きたないです。だから、誰も遊びに来ないでね・・・(笑)
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気晴らし・・・
[2007/02/12 07:44] マンガ・アニメ
気が滅入っていたのでとにかくこういうときには気晴らし!
昨日は1日ベッドでころがったまんまで動けなかった。
夜はいつの間にか寝ていて、パソコン開いたまま私の横で一緒に寝てた。(笑)

こういうときにネットの存在はすごく救われる。

さて、今日自分の「うつ記録ブログ」をアップしていたら、そこで目に付いたのが「マンガ占い」。

テレビアニメなどのキャラにたとえられるらしい。(笑)

これは、オタクのはしりである私としては(少なくとも、マンガブームや声優ファンの先駆けで、ヤマトのアニメ映画で並んだとかという過去がある)やるしかない。

そしたら私は「仮面ライダー」だってさ。(笑)

ここからは結果の引用。

仮面ライダーの性格▼

あなたは、リーダーになれる素質がある人です。芯が強く、合理的な物の考え方ができます。目標を持つと、持ち前の行動力を発揮し、一歩一歩確実に進んでいくことができるでしょう。内に秘めた強さとは逆に、表面的には穏やかでのんびり屋さんですが、プライドが高いところはたまにキズです。我を張りすぎないように気をつけましょう。

好きなこと・長所

動くことが大好き。人の面倒見がよい。才能豊か。深く考えないで行動したことが案外と成功する。

嫌いなこと・短所

物ごとに固執すること。ウソをつかれる事。一度猜疑心を持つと、信頼感に変わるまでに時間がかかる。

良い相性 キレンジャー、009

悪い相性 ショッカー、ロビン、ロボコン

適 職

誰とでも良い人間関係がつくれます。多くの人から援助を受け、何をしても成功するでしょう。会社組織の中でも、独立しても成功する仕事運です。
政治家・公務員・教師・弁護士・会計士・税理士・芸術家・ジャーナリスト・エンジニア・医療関係・事業経営・福祉関係・広告関係・芸能関係・自動車関係・電気部品関係・建築関係・各種セールス

だって~。
職業、なんでもありじゃん。(^_^;)

ショッカーと仲が悪い…まあ、しょうがないよね、敵だもんね。

内に秘めた強さとは逆に、表面的には穏やかでのんびり屋さんです・・・ってのは、別の占いにも書いてあったなぁ~。私は「大河」なんだって。外から見たら緩やかなようでその実何者をも巻き込む激しさがある大河。似てるね。当たってるのかなぁ?もしかして昨日の状態はこれなんだろうか?

プライドが高いのは仕方ないや…そんなプライドなんか持ってないけど、プライドの高い家に育ったから小さい頃から気持ちだけは「お嬢様」だったからね。
実情は全く違うけどね、化けるときには化けられるのが強みかな。(^_^;)

興味のある方は、こちらへドゾ~。
   ↓
電脳漫画館 キャラクター占い

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これがうつなんだよなぁ~
[2007/02/12 03:49] ひとりごと
人の気持ちを受け止めるのは、上手だと思う。

だってねぇ、自慢する訳じゃなくて、「相手の気持ち」が痛いほどわかっちゃうんだよ…ちゃんと話や文章から通じちゃうの。

だからどの人に対しても、冷静に対処できるんだよね。

人に対して「怒る」ということがない。

だって、みんなそれぞれの人生をそれぞれなりに生きているからね。
それだけでもまず尊敬に値すると私は思っているから、「それでOK」なんだよ。

だからみんなの気持ちがわかるの。
わかって、そして話をして、相手の気持ちが和らいで顔になってもらえると、すっごくうれしい。

そういう場面が多いから、きっと私はそれが出来る方なんだろうね。
そしてそういう自分に気がついたから、カウンセラーの勉強もして、資格も取ったんだ。

「ふざけんな!」とか「いいかげんにしてよ!」

そんな言葉を日記に使うこともあるけれど、それは怒っているのではなくてとりあえず「自分の思いを言葉に乗せたらこうなった」というだけで単なる表現のひとつなだけ。


私、人に対してはいつでも真剣。
人に対しては精一杯、ありったけの誠意で通す。

これが私。

これをもう崩すことは、私自身の存在を覆すことと同じだから、一生これは変わらないと思う。

だけど、昨日はいろいろな想いが私の中に一度気に流れ込みすぎて、動けなくなった。

ベッドから起き上がるのが苦しい。
何かしようというアクションをとる前に、なにも考える気にならず、頭が思考停止状態。

そして、そういう自分が客観的に判断できるからまた辛い。

……これがうつなんだなぁ。
体自体はちゃんと動くんだよ…機能上は問題がないんだ。
だけど、心の病気はそういう機能を奪ってしまう。

なんで自分のありのままじゃいけないのかな…ふと、つい先日の旅行中のことを思う。

あの時は一度もこんな状態にならなかった。
薬飲まなくても、ぐっすり眠れた。

人との触れあいのほんのちょっとした一コマがみんな温かかったから。

だから私は、こういう場所を地元に作りたい。
それをしに、そのためには何が必要なのかを感じ取りに行ってきた。

さぁて…いつまでも転がってはいられないな。
寝たままでもいいから、書類に目を通したり、ネットで調べること調べて…また「今の自分」が出来ることから考えていこう。

とりあえず「今の自分」がしなくちゃならないのは…。
夜中に冷めてしまった目を再度つぶって朝までもうひと眠りすることかな。(笑)
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困ったなぁ…
[2007/02/11 12:58] ひとりごと
今日の私…なんだか心の奥が妙に殺伐としている。

かさかさに乾いた砂漠のような心になっている。

サボテンのようにとげとげしたものが心の奥にある。

よくないや、これ。
このままだと人を傷つけるようなこと言ったりやったりしてしまいそう。
ひとりでこもっていようか…でも約束があるからそれも出来ないし…。

こんな自分は滅多にないので…自覚してさらにショック。

疲れているのかな?
押さえなくちゃ…。

こんな時、皆さんだったらどうします?

とりあえず…薬ちゃんと飲んでおこう。
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う~~~~~ん+追伸
[2007/02/10 02:26] ひとりごと
むずかしいね、人間って。

本当に伝えたいことが山ほどある今回の失踪事件?なんですが、本当に伝えたい人には伝えられないというなんというか悪循環…。

実は、ひとつ前に記事とイントロをアップしたHPのURL書いたんですけどそれに対しての反応があっていろいろと考えてしまったので消しました。
私は本当に今の世の中には必要なことだと思っているんですよ、しばらく消えた期間での経験はね。

自分のためだけでなく、そして家族のためだけでなく、この経験が人のためになるだろうという確信でやったことなのではっきり正直に書きたかったんです。実情をね。

だけどそれに関してのイントロを読んだ人から「家族だけの楽しい思い出にとどめておいた方がいいのでは?」っていうコメントもらっちゃったんですよ。

確かに…大きな声で言えることではありません。
「ダメ」といわれることをあえてやったのですからね。
だけど…う~~~~~~~~ん、読む人によっては違う方にとられたら確かに困る。いわれることもわかるんです、そしてこういう人がいるかもしれないと思ってイントロだけアップしてみたんです。

自分のことだけ考えていたらね、確かにアップしない方がいいですよ。
でもねぇ……私、そうじゃないからな……「楽しいだけ」の物じゃないことはわかって欲しかったんだけど……。

むずかしいですね。
これ読んでいる人はなんだかわかんない人多いですよね。

ネットで人に情報発信することの難しさをマジで悩んでいます。

すんません、読んでわかった方で、アドバイスくださる方、「秘密のメッセージ」でもいいし、メールでも良いからご意見聞かせてください。m(__)m


追伸:この記事に出てくる「内緒のコメント」くださった方へ。


あなたのこのブログ記事に対してのコメントもさっき読みました。
コメント下さるのは非常に嬉しいです。そして、あなたの書かれていたいとも、ちゃんと理解していた上でのこのメッセージなんです。

ただ、出来たらあなたとお話がしてみたいです。今朝もさっそくコメント下さって感謝していますが、出来たらメールでやりとしてみてくださいませんか?

あなたから言われたことはとても良くわかっています。あなたも少なくとも、ただ「やめた方がいい」と非難の意味で言われたのではないことも分かっています。だからこそ私は前の日記は削除してこちらに変えました。

だけど、私はあなたにメッセージもらってもあなたと話をすることが出来ません。せめてコメントにメールアドレスでもつけていただけないでしょうか?

私はあなたのようにお考えになる人と是非お話をしたいのです。

少なくともあなたは、今までの私の日記に対してはコメントくださったことのない方ですよね。そして、私を知っている人間でもないと思います。せめてメールででもお話ししてくれませんか?一方的にあなたの気持ちを受け取るだけなので私はあなたのように考える方の気持ちに対してなんと答えたらいいのか混乱しているのです。でも、あなたのように考える方の気持ちも知りたいのです。

だから「お話をしてみたい」です。

少なくとも、あなたは私の考えを単に拒否するだけではないと言うこともわかります。あなたのように考える方がいるであろうことも十分承知した上でアップした記事だったので、あなたのように考えられる方のご意見や感想を是非とも知りたいのです。

もし、またこれを読まれることがあり、単に通りがかりで何も知らずにご自分の意見を押しつけるだけでない方なのでしたら、どうかメールアドレスを書いて私と話をしてみていただけないでしょうか?

私としては、あなたのコメントにも同意するところがあるので。

でも、その上でさらに何とかしなくちゃと思っている者ですので。

どうかお願いいたします。
お返事お待ちしています。よろしくお願いいたします。m(__)m

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帰り着きました。
[2007/02/09 00:24] ひとりごと
どこにいたのかとかなにしてきたのかとかは詳しくまたどこかで書きますが、いろいろあって1月の末から出かけていて長野に着いたのが21時。

そのまま、だんなに迎えに来てもらって帰宅し、そして5日生まれのだんなのちょっと遅い誕生パーティをやって、ちょっと前にひとり住まいの部屋に帰ってきました。
久しぶりに帰宅しました。

何とも言えない気分です。
なんだかあの日々が遠い昔のような…まあ、帰るのにどたばたと時間もかかればそんな気分にもなりますよね。(笑)

でも、本当にたくさんの宝物を手に入れて(心にも、物にも)帰ってきました。

いろんな関係であまりおおっぴらには話せないことではありますが、教師として、母として…何よりも人間としてすごくたくさんの勉強をしてきました。

無事に帰ってこられて良かったです。(^_^;)

とりあえずは帰宅のご挨拶。
疲れがとれたら息子との珍道中をまとめてアップしたいと思います。

みなさま、ただいまです。(^_^)v
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