カテゴリー     - 教育・学校 -

             
スポンサーサイト
[--/--/-- --:--] スポンサー広告
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)
この記事のURL
             
娘の涙に思うこと。
[2010/11/29 10:22] 教育・学校
昨日、ものすごく腹が立ったことがありました。
学校はこんなになっちゃったんだろうか。
教師ってこんなやつしかいないんだろうか。

今書いているテーマに当てはまることになるので、連載中もブログにも書いた文章ですが、こちらにも転載します。

皆さんは、どうお考えになりますか?

:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::

昨日、この原稿を書いている私の横に来て、娘が小さな声で聞いてきました。

「お母さん、センター試験まであと1ヶ月しかないけど、今から頑張ってももう無駄なの?間に合わないの?」

そういって泣き始めたのです。

娘は今、大学受験に向けて勉強中の高校3年生。「なりたいもの」に向かってそれなりに努力しています。

けれども、高校の「勉強」はなかなか思うに任せず、第一志望の大学は模試でいまだにC判定以上(合格圏)になったことがありません。決して何もやっていないわけではありません。でも机に向かっていてもうダメだ、という感じだけで、問題が頭に入ってくる実感をなかなか得ることができない……もうすでに、推薦で合格を決めた人もではじめている今、今まで何もやってこなかった自分はあと1ヶ月じゃもうダメなんだ……。

「自分ではなんにもやってこなかったとホントに思うの?あきらめちゃったの?」

そう問うと、先日の学校での学年集会での話をしてくれました。

「学年集会でね、先生がこう言ったの。『あと1ヶ月しかない。もうすでに合格を決めた者がいる中で、君たちは、まだこれからだ。あと1ヶ月しかないから、ここから本気でやらないと、今まで怠けてきた君たちはもう間に合わないぞ。』って。お母さん、私、今までやってこなかったからもうダメなのかなぁ。1ヶ月じゃぁ、何もできないのかなぁ。そう考えると、勉強する気にぜんぜんなれなくて苦しいんだよ。」

聞いていて、私はものすごく腹が立ってきました。

「あのね、あなたは今まで何もやってこなかったわけじゃないでしょ。ちゃんと勉強もして、自分なりに頑張っているけど、思うにまかせない状態だから苦しんでいる。それから、受験が迫ることでの不安もある。もしあなたが本当にサボっていて受験なんかどうでもいいと思っているのだったら、今こんなに苦しくはならないよ。苦しいのは、頑張っているのに思うにまかせない自分がいて、この先の不安ばっかりが目についちゃうからだよ。」

「でもね、1ヶ月頑張ってももう無駄だとしか思えないんだよ、先生の話聞いてから。1ヶ月がんばって間に合った人の話でも聞けたら頑張れるのかもしれないけど……。」

「1ヶ月という時間を、その不安で振り回されて過ごすのか、それとも、今まだ与えられている時間を悔いが残らないように自分なりに過ごすのか……。あなたはどっちの方がいいのかはわかるよね。人と比べても焦るだけだよ。自分が合格するイメージを頭に持って、そしてそこに向かって今やることをやる、それでいいんじゃない?今よりもひとつでも覚えてわかることを増やす。そうして一問でも二問でもわかる問題が増えれば2点、4点とアップするでしょ?」

「…………。」

それまで泣いていた娘は、泣き止んでじっと考えはじめました。

*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*☆*★*

自分の高校時代、大学受験を目前にしてやっぱりものすごい不安がありました。私は親から「浪人は許さない。国立大学しか行かせない。」と言われていたので、地元の国立大学一校しか受験しないことになっていました。だから、そこがダメだったら大学もあきらめなくちゃいけない、という状態にあったんです。教師になりたい、という夢も断たれることになってしまうのです。

落ちたらどうしよう……そんな不安と闘いながら、しかし合格して大学で学ぶ自分を思い描き、そこに向かってやるしかないと毎日必死でした。

「1ヶ月」という時間は確かに高校一年からの三年間を思うと「ほんの一ヶ月」に当たるのかもしれません。けれど、その1ヶ月あったら……たとえば一日英語の構文ひとつ覚えるだけでも30構文は覚えられます。決して「もう遅い」ではないのです。

それなのに、不安でつぶれそうな生徒を前にして「あと1ヶ月じゃ間に合わない」という言葉はいったい何をイメージさせるのでしょうか。

たぶんこの教師は「それだから頑張れ」という激励のつもりだったのでしょう。しかし、この言葉のように「まだいけるかも」というイメージを持ちながら頑張っている生徒の不安を煽って、その踏ん張りを足元から崩すような言葉は……果たして「激励」になるかどうかはちょっと考えるとわかりそうなものです。

もっと言うと、この教師は自分が受験生だった頃の不安は全くなかったのでしょうか。それとも、教師として上に立って「指導」しているうちに、自分の昔の記憶など忘れ去ってしまったのでしょうか。

いずれにしても、今必死で最後の頑張りや踏ん張りをしている生徒たちの気持ちを全くイメージしていないこの言葉。それは生徒たちの「頑張りたい」という気持ちや、「まだできることがあるかもしれない」というイメージを蹴散らすものでしかありません。

「一日に、このくらいを目安にもうひとがんばりしてみよう。そうすればまだまだできることはあるよ。」

そういう「頑張れる足がかり」をイメージさせる言葉をなぜ提示することができないのでしょうか。

生徒たちは、怠けたくて怠けているわけじゃないし、誰もが皆、合格したいという気持ちで必死です。けれど、そうではない現実があるし、頑張ったからと行ってなんでもかなうわけではないのも現実です。

そういう現実に立ち向かっている生徒たちには、では「どう立ち向かうのか」という道を示すのが「先生」の仕事であるべき。

残念ながら、今はこう言う先生はものすごく少なくなっています。点数でしか生徒を見ることが出来ない。そしてもっと言うと、「そんな教え方しかできない」自分たちの責任は全く振り返ろうとはしない。

「おまえたちがダメだからダメなんだ」

それを理由にしたら、教師失格だと私は思うのです。

全国の受験生の皆さん。
今は、自分としっかり向かい合ってくださいね。苦しいと思います。自分がものすごくだめなやつに思えるかもしれません。でも、本当にダメなのは、そういう周りの「誤ったイメージ」に振り回されて今できるはずのこともあきらめてしまうことなのです。

本気の自分の姿を、イメージしてみてください。
その自分が一時間でどのくらいのことができそうか、イメージしてみてください。

その一時間を、一日に3倍したら、どのくらいのことができますか?
そして一日3時間でできることを、1ヶ月………30倍したら、どのくらいのことができますか?

ね、すごいでしょ?
あなたはそこまでできるんですよ。あなたはそこまでやれるのですよ。だから大丈夫。

「今できることを積み重ねること。」人は何かするとき、そうするしかないんです。

逆を言うと、それさえちゃんと出来ればそれだけのことをやり遂げることができるはずなんですよ。

1ヶ月もまだあります。1ヶ月も頑張れるんです。
終わったわけではありません。今からでもはじめられることです。

みんな、頑張れ!

「イメージ」できれば世の中は変わる。intermezzo3.娘の涙より転載


sakurasaku.jpg

:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::

スポンサーサイト
教育・学校 | トラックバック(0) | コメント(2)
この記事のURL
             
お金かけたからって話せるようになるもんじゃなし~英語
[2008/10/30 09:30] 教育・学校
こんな記事が目についた。




別に~~~、お金かけなくたっていいじゃない。
この記事読んでいると、話せるようになるためにはお金かけなくちゃダメみたいだけど。

日本語話すようになるために金かける人いないよねぇ。

言葉を話すってどういうことなのか。
それは、相手に自分の気持ちや想いや考えを伝えるためでしょ?

生まれて、育っていくときに、嬉しい、悲しい、おなかすいた……
そんなことをまず親に、周りの人に、伝えたいから言葉が出てくる。

そこには気持ちがあって、その想いがエネルギーになって言葉が生まれてくる。

お金なんか必要ないよね………。


言葉って、みんな同じなんだと思うけど。
英語だってドイツ語だって、イタリア語だって。

その時、その想いを一番伝えようとしてぴったりだったら、使ってみればいいんだよね。

何も、文法的に完璧じゃなくたっていいんだよね。
たった一言、単語1個だけだっていいんだよね。

もともとみんな、そこからの出発なんだと思うけど………。


たとえば単語間違えたら、相手は聞き返してくるから。
そしたら相手にわかるように、伝わるように、言い直せばいいんだよね。

そこにあるのは、相手と自分との心の交流。
お金の流通で言葉が出てくるわけじゃない。

本当に話したかったら、本当に伝えたかったら、別にお金かけて教材買ってやらなくても自分で言葉使うようになればいい。
わからない言葉があったら、身振り手振りでいいから相手に聞けばいい。

みっともなくたっていいじゃない。
一生懸命に伝えようとする気持ちがあれば、ちゃんと伝わるしいつかその中で伝わる言葉もわかってくるはずだよね………。


それは、英語に限ったことじゃない。
日本語だって同じ事。

わたしは、英語がどうのこうのと言うよりも……こういう日本語でのコミュニケーションや伝達の方法がちゃんとできていたら、英語だってちゃんと伝えられるようになるはずだと思うんだけどね。

根本的に、相手に伝えよう、相手の思いに答えようとする日本語の使い方自体が出来ていない人が多いような気がするよ……。

それはもう、英語以前の問題なんだと思うんだなぁ……。


日本人は、もっとちゃんとに言語の重さや大切さ、感じた方がいいと思うなぁ…。
教育・学校 | トラックバック(0) | コメント(2)
この記事のURL
             
みんな、人のせいなんだから。
[2008/06/11 11:07] 教育・学校
親が悪い。
学校が悪い。
会社が悪い。
自分を認めてくれない社会が悪い。

先日の事件に関わる記事を読んでいると、そういう考え方があちこちから見えてくる。

そういう者にとって「誰でもよかった」ということはつまり。

自分の哀しみや苦しみも、結局みんな人のせいで。
でも、いろいろ重なって、一体どの哀しみが誰のせいだかもわからなくなって。
だから、その原因を誰に求めていいのかもわからなくて。

それでも、自分がこうなっちゃったのは、きっと誰かの、何かのせいなんだから……。
だから、誰でもいい、自分の苦しみの「責任」を負ってくれ……。

そんな思いが流れているような気がしてならない。


そして、この事件において、おおかたの報道も世間の反応も。
事件を起こした犯人が悪い、となるのは当然の話。

むろん、わたしだって、なにも関係のない人の命を奪うこの行為は許せない。
彼の責任は厳しく追及されるべきで。
もっというのなら、「自分の起こしたことを、今度は人のせいにせずに、きちんと自分の行為として自分で責任とりなさい」という気持ちはある。

命を奪うことは、人が人の命を奪うことは、許されることではない。
同じだけの苦しみを、きちんと自分で背負うことは、犯人にとっては絶対に必要なことだと思う。


だけれども。
この事件はこの事件として切り離して考えていたら。
今後、また同様な事件が起こらないという保証は全くない。

なぜなら………
「人のせい」と原因や責任を自分でないほかのものに求める風潮は、これは今の日本の社会でごく身近に起こっている思考の道筋だから。


何回か、わたしは教育問題に関わってこのブログにも書いている。

いじめ問題。
不登校の問題。
「ゆとり教育」と呼ばれた教育に対しての糾弾の問題。

そのたびに思うこと。

「みんな、人ごとだと思っている……だから、この問題、なくなりっこないよね。」

学校はいう。
社会が変わってしまった。
親の家庭教育力をなくしている。
忙しいのは上からの押しつけのせいだ。

親はいう。
学校の教育力が低下しているせいだ。
学校、もっとしっかりしてよ。

社会もいう。
学校がちゃんとしていない。
親もちゃんとしていない。
文科省もしっかりしろ。

………みんな、人のせいなんだよね。

それじゃあ。
それぞれの者たちはお互いまったく関係ないのだろうか?

そうじゃないと、わたしは思う。

子どもを育てるのは誰だろう?
まずは、家庭。
でも、その家庭を育てるのは誰だろう。
それは、地域や社会。
学校を見守って支えるのは誰だろう?
子どもを出している親と、その学校を取り囲む地域のみんな。

そして、そのすべては日本という社会のひとつの構成要素だから。

どれも切り離せない要素であり。
どれも大切な要素であり。
どれをなくしても成立しない。

だから、学校で起こっていることは、家庭にも関係あり、地域にも関係あり、まして社会には大きな影響があるはずなのに。
そして、その方向の逆のルートもまたあり得ることで。

どれかひとつに原因を求め、そのせいにして追求しても、一番の元凶は、なくなりはしない。


人のせいにする。
それは、自分には関係ないという無意識の責任回避。
その出来事は、あくまでもひとごとで、自分に関わりない世界の出来事。

だから、自分自身は動かないし、変わらなくてもかまわない………。

突き詰めると、そうなっていってしまうのだ。


秋葉原の話を聞いたとき。
わたしは池袋の雑踏を歩いていた。

今、この瞬間に、ここで同じ事件が起きる可能性だって十分にあること。
そう思って背中がぞくっとしてしまった。

実際に、たぶんまだまだ同じ根っこはあっちこっちにはびこっているはずで。
もしかしたら、今、自分が対している周りの人間にだって、そういう思いがないとは限らない。

けれども逆に考えたら、どうだろう?
もし、自分の周りにいる人たちの中にそういう物があったとしても。
自分1人でもいいから、「これは人ごとではない。これは、自分たちが何とかしなくてはならないこと。自分の関わりで、何かは変わるかもしれない」と、そう思って動いたとしたら。

そういう気持ちで周りを見て、声がけや行動を続けたら。

そういう「1人」があっちにもこっちにも、自分の周りにいてくれたら。。

「これから起こる可能性」は少しでも薄まるのじゃないか。


「自分に関係ない」
「みんな人が悪いんだ」
この思いは、多かれ少なかれわたしの中にもある。
周りの人も、人間だったらたぶんみんなが持っている気持ち。
なにも、あの犯人だけの思いじゃない。

だからこそ、あの事件はどこか遠いところの人の事件ではなく。
自分の周りで当たり前に起こるかもしれない事件だとみんな受け止めるべきじゃないのか。

そうして、その受け止めができれば
「何とかしなくっちゃ」
「自分たちが何かできる」
「自分たちで防ぐことができる」
そう思う人がすこしでも増えていくに違いない………

それが、二度とあんな悲しい事件を起こさないための一番の近道なんじゃないか。
わたしは、そう思う。



教育・学校 | トラックバック(0) | コメント(3)
この記事のURL
             
この記事を、どう見るか。
[2008/05/07 07:36] 教育・学校
どうなる学校 公立が塾と連携(下) 塾講師に“教え方”学ぶ

                  2008年5月6日中日新聞

 学校と塾の連携は今や受験指導や授業のさらに先を行く。塾は、教員の“武器”である「教える技術」を指導するなど、教員の“先生”に立場が逆転している。「教育をする人」が塾に教えられる関係に、戸惑う声もある。 (井上圭子)

 「教師は魅せて伝える仕事。情報伝達の要素は7%が内容、93%が表現力。ジェスチャーや表情を磨きましょう」「まずは発声練習から。起立! 口を大きく開けて。あ・い・う・え・お!」

 ある土曜日の午後。東京都新宿区の早稲田アカデミーで開かれた「教師力養成塾」。初回テーマは「表現力」。受講生は全員が現役教員だ。

 ビデオを使った自己紹介実習では、講師から鋭いアドバイスが飛ぶ。「一番近くの生徒を見てない」「線が細くて頼りない印象。手を横に広げて話すと堂々と見えるよ」「猫背を生かして、前傾姿勢でもっと手を使うとやる気が伝わる」「話の句読点で相手の目を見て。滑舌を良くするには口の形を意識的に作って」

 受講した教員らは「同僚同士ではここまで本音を出さないし、互いに高め合う余裕もない」「保護者や校長の評価が厳しい今、自分の学校では弱みを見せられない」などと、学校では“技”を磨きにくい現状を口にする。

 同塾統括責任者の大矢純さんは「われわれが伝授するのは『学習する空間づくり』。そのノウハウが学校現場で役立ち、弊社にも新しいビジネスチャンスになれば一石二鳥」と話す。全国の学校から呼ばれ、大矢さんは連日飛び回る。都内でも足立区などいくつかの自治体が昨年度、教員研修の一環として同塾講師を招いた。

 塾の膨張は続く。教員養成の大学院経営に参入した企業もある。学習塾の栄光ゼミナールなどを展開する「栄光」は二年前、千代田区に社会人対象の日本教育大学院大学を開校。現職や「教員の卵」七十数人が学ぶ。梶原宣俊事務局長は「国の教育改革には期待できない。ならばわれわれが先生を変えようと。文部科学省もわれわれの存在を認めた。塾はもう日陰者ではない」と胸を張る。

 「教える技術」という教員の本業にまで食い込む塾。公立校はその“軍門”に下ったように見える。

 昨年、初任者研修に教師力養成塾の講師を招いた多摩地区のある市教委は「従来の研修は授業の組み立てや教材研究が中心で、発声法や板書法など表現方法までは触れなかった。違う視点からの指摘は新鮮で役立った」と認める。だが、こうした「逆転の関係」への負い目からか「将来も継続して協力を求めようというわけではない。自治体名は伏せてほしい」とも話す。

 元公立高教員で「プロ教師の会」の諏訪哲二代表(66)は「学校教員の仕事の八割は人間づくり、二割が学習指導。技術だけでは生きられない世界。塾の売れっ子講師が学校でも有能とは限らない」と塾依存に懐疑的だ。

 その上で本来の公教育のあり方を「社会を形成していく自立した個人を育てるのが学校の役割」と指摘、「『学力重視』の風潮にバカな教委や校長が流され、自己革新力のない教員が振り回されている。人間づくりを真剣に考えている教員は困っている」と批判する。

 受験実績や学力重視に公立校が走り、一方で塾は「日本の教育改革」を旗印に掲げて成長している。両者の境界が薄らぐ中、公教育の意義が問われている。






塾がどうの、公立学校がどうの。
軍門に下った、勝った、負けた。

こんな表現しているようでは、どっちもおしまいだと、私は思う。

だって……この表現の中に、本来教育の主人公である「生徒」の姿が見つけられないから。


何のために、教育をするのか?
それは、生徒のためでしょ?

子供たちに生きる力を付けるために。
子供たちが自ら考え、自らの柱を一本しっかり真ん中に据えて、1人の大人として、社会の一員になっていくことが出来るように。

それをするのが「教育」の目標でしょ?

その視点が全くないんだよね………。どこ読んでも。

私はその方が怖い、と思う。。

記事の最後の方に、ちょっとだけそこに触れている。
重要視されるべきなのは、この視点だと思う。

塾は、塾だ。
経営向上させるために、企業努力をものすごくしている、と思う。

分析や生徒の心をつかむための努力はものすごい。
でも、それはあくまで「利害追求」という視点。

そこは混同したら、まずい。

学校にしかできないこと。
それは、利害は関係なく、子供たちを育てることが出来る場所だ、ということ。

正直言って、教員の評価制度はそれを阻害すると、私は思っている。
逆に言うと、評価しなくては「だめ」な教員しかやとうことの出来ない教育委員会の責任を、現場に押しつている。

昔は評価なんかしなくても、それぞれがしっかり思いを持って生徒育てていたよ?

教育や、教師がおかしくなったのは、周りからの学校への期待が過度になって、評価に左右されるようになって…要するに、「周りの監視」におびえながらの教育活動になってきた頃から。

そんなものにおびえながら教育していたら、人からの思惑に左右されながら教育していたら、芯の通った教育なんか出来るはずないじゃないですか。

先生たちが「生き生きして」いた時代。
わざわざ指導なんかされなくても、先生たちはちゃんと生徒たちの心、つかんでいたように思うよ。

自分たちの「教えるテクニック」なんかね。
まなばなくっても、生徒たちとのやりとりの中で、先生たちもちゃんと身につけられていたんだよ。
先輩の先生たちからも、ちゃんと学び取っていたんだよ。

外に学びに行くくらいだったら。
もっと生徒たちと向き合えばいいのに。
一番の先生は、「生徒たち」だよ。

子供の顔見て。
子供の言葉を聞いて。

そしたら、彼らだってちゃんと反応してくれるはず、なのに。

生徒と向き合う時間を、こういう「研修」に当てるのね。
だけど、そういう先生だけを責められないの。
だって、周りがそれを求めるんだから。

こうやって、どんどん生徒と先生とは、かけ離れた存在になっていく。

これこそが今、教育現場にすでに深く根ざしている「一番の問題」だと思うのだけど。。。

無駄な研修。
余計な事務処理。
こういうことから教師を離して、もっと生徒と向き合う時間を確保しなくちゃ。。

塾じゃ、出来ないこと。
学力重視じゃ、出来ないこと。

学校にしか、出来ないこと。

すでにもう、手遅れではあるけれど。
1人でも多くの人が気が付いて、1人でも多くの現場の人間がブレーキかけて。
一刻も早く方向転換しなくっちゃ。

日本の教育、もうおしまいだよ。。。
教育・学校 | トラックバック(0) | コメント(6)
この記事のURL
             
フィンランドの教育事情に学ぶもの
[2008/04/29 12:42] 教育・学校
フィンランドに見た教育の原点
2008.4.28 21:02              MSN産経ニュース

 経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)でトップクラスを維持するフィンランドに、世界中から教育使節団の訪問が相次いでいる。人口527万の“森と湖の国”に起きた教育の奇跡を探ろうと、欧米の競争至上主義者も血眼になっているのだ。しかし、そこには特別な秘密も最先端のノウハウも存在しない。教師への尊敬と1人ひとりの子供を育てたいという愛情が国全体に根差し、大きな花を咲かせていた。(ヘルシンキ 木村正人)

(中略)

 首都ヘルシンキで先ごろ開かれた教育制度セミナーには、米国、英国、日本、韓国など計19カ国の72人が参加した。訪れた小学校のビルマ・ツモイ校長(50)は「子供たちの頭をパカッと開けて物事を詰め込むのではなく、考えることを手伝っている」と話す。授業でも、教師が画一的に教える光景には出会わなかった。英語の授業に参加していたステラさん(12)は「先生のこと、大好きよ」と声を弾ませた。

(中略)

 同国はロシアとスウェーデンの2強国に長く支配され、1917年に独立を果たした。森と湖以外の資源といえば人材だけ。国家の生き残りをかけて取り組んだのが「国民の教育」だ。

 94年の教育改革では、「教える」から「子供を支援する教育」へと根本的な転換を果たした。20人前後の小人数学級で子供1人ひとりとの対話を増やす授業を実現。考え抜く教育はOECDが目指す方向とぴったり合った。

 これまで6回セミナーに参加した都留文科大の福田誠治教授は「主要な貿易相手国、ソ連が91年に崩壊したことでも変化を強いられた」と指摘する。失業率の上昇で福祉制度を維持しながら「小さな政府」を目指したフィンランドは、教育制度の中間管理職を極力小さくして現場を厚くした。

 日本より簡単な教育指導要領はあるものの目安にすぎず、現場の教師に大きな裁量権と責任が与えられた。教師は十二分に専門性を発揮して生徒の成長を支援し、学校・父母・地域・自治体・国家が教師を支える仕組みを作り上げた。生徒と教師の人間関係を重視する教育を「オールド・ファッション」とフィンランド国家教育委員会の関係者はセミナーで強調した。

 (後略)

記事はこちらから



今の教育に必要なのは、これだと思うのです。。

かつて「学校」は文化を学ぶ場所でした。

学校に行けば、知識を得ることが出来ました。
学校に行けば、毎日の生活で触れることの出来ない経験を手にすることが出来ました。
学校に行けば、気が付かなかった身のまわりの事象にも、たくさんの「決まり」があって、その中で理路整然と世の中が動いているという「仕組み」に気が付くことが出来ました。

今の学校はどうでしょう?
そういう魅力があるのでしょうか?

なぜ、学校は「あこがれの場所」ではなくなったのか。

その点についてもっとみんなで考えるべきだと思います。

学校があこがれの場所になったら、絶対みんな行きたくなります。
学校は楽しい場所になります。
そして心から、学ぶ楽しさを知ることが出来るようになります。

それがないのが、今の日本の学校です。


どうしたら学校は、「あこがれの場所」に戻れるのか。

そのヒントが、この文章の中にたくさんあるような気がします。。。


教育・学校 | トラックバック(0) | コメント(0)
この記事のURL
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。