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みんな、人のせいなんだから。
[2008/06/11 11:07] 教育・学校
親が悪い。
学校が悪い。
会社が悪い。
自分を認めてくれない社会が悪い。

先日の事件に関わる記事を読んでいると、そういう考え方があちこちから見えてくる。

そういう者にとって「誰でもよかった」ということはつまり。

自分の哀しみや苦しみも、結局みんな人のせいで。
でも、いろいろ重なって、一体どの哀しみが誰のせいだかもわからなくなって。
だから、その原因を誰に求めていいのかもわからなくて。

それでも、自分がこうなっちゃったのは、きっと誰かの、何かのせいなんだから……。
だから、誰でもいい、自分の苦しみの「責任」を負ってくれ……。

そんな思いが流れているような気がしてならない。


そして、この事件において、おおかたの報道も世間の反応も。
事件を起こした犯人が悪い、となるのは当然の話。

むろん、わたしだって、なにも関係のない人の命を奪うこの行為は許せない。
彼の責任は厳しく追及されるべきで。
もっというのなら、「自分の起こしたことを、今度は人のせいにせずに、きちんと自分の行為として自分で責任とりなさい」という気持ちはある。

命を奪うことは、人が人の命を奪うことは、許されることではない。
同じだけの苦しみを、きちんと自分で背負うことは、犯人にとっては絶対に必要なことだと思う。


だけれども。
この事件はこの事件として切り離して考えていたら。
今後、また同様な事件が起こらないという保証は全くない。

なぜなら………
「人のせい」と原因や責任を自分でないほかのものに求める風潮は、これは今の日本の社会でごく身近に起こっている思考の道筋だから。


何回か、わたしは教育問題に関わってこのブログにも書いている。

いじめ問題。
不登校の問題。
「ゆとり教育」と呼ばれた教育に対しての糾弾の問題。

そのたびに思うこと。

「みんな、人ごとだと思っている……だから、この問題、なくなりっこないよね。」

学校はいう。
社会が変わってしまった。
親の家庭教育力をなくしている。
忙しいのは上からの押しつけのせいだ。

親はいう。
学校の教育力が低下しているせいだ。
学校、もっとしっかりしてよ。

社会もいう。
学校がちゃんとしていない。
親もちゃんとしていない。
文科省もしっかりしろ。

………みんな、人のせいなんだよね。

それじゃあ。
それぞれの者たちはお互いまったく関係ないのだろうか?

そうじゃないと、わたしは思う。

子どもを育てるのは誰だろう?
まずは、家庭。
でも、その家庭を育てるのは誰だろう。
それは、地域や社会。
学校を見守って支えるのは誰だろう?
子どもを出している親と、その学校を取り囲む地域のみんな。

そして、そのすべては日本という社会のひとつの構成要素だから。

どれも切り離せない要素であり。
どれも大切な要素であり。
どれをなくしても成立しない。

だから、学校で起こっていることは、家庭にも関係あり、地域にも関係あり、まして社会には大きな影響があるはずなのに。
そして、その方向の逆のルートもまたあり得ることで。

どれかひとつに原因を求め、そのせいにして追求しても、一番の元凶は、なくなりはしない。


人のせいにする。
それは、自分には関係ないという無意識の責任回避。
その出来事は、あくまでもひとごとで、自分に関わりない世界の出来事。

だから、自分自身は動かないし、変わらなくてもかまわない………。

突き詰めると、そうなっていってしまうのだ。


秋葉原の話を聞いたとき。
わたしは池袋の雑踏を歩いていた。

今、この瞬間に、ここで同じ事件が起きる可能性だって十分にあること。
そう思って背中がぞくっとしてしまった。

実際に、たぶんまだまだ同じ根っこはあっちこっちにはびこっているはずで。
もしかしたら、今、自分が対している周りの人間にだって、そういう思いがないとは限らない。

けれども逆に考えたら、どうだろう?
もし、自分の周りにいる人たちの中にそういう物があったとしても。
自分1人でもいいから、「これは人ごとではない。これは、自分たちが何とかしなくてはならないこと。自分の関わりで、何かは変わるかもしれない」と、そう思って動いたとしたら。

そういう気持ちで周りを見て、声がけや行動を続けたら。

そういう「1人」があっちにもこっちにも、自分の周りにいてくれたら。。

「これから起こる可能性」は少しでも薄まるのじゃないか。


「自分に関係ない」
「みんな人が悪いんだ」
この思いは、多かれ少なかれわたしの中にもある。
周りの人も、人間だったらたぶんみんなが持っている気持ち。
なにも、あの犯人だけの思いじゃない。

だからこそ、あの事件はどこか遠いところの人の事件ではなく。
自分の周りで当たり前に起こるかもしれない事件だとみんな受け止めるべきじゃないのか。

そうして、その受け止めができれば
「何とかしなくっちゃ」
「自分たちが何かできる」
「自分たちで防ぐことができる」
そう思う人がすこしでも増えていくに違いない………

それが、二度とあんな悲しい事件を起こさないための一番の近道なんじゃないか。
わたしは、そう思う。



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この記事を、どう見るか。
[2008/05/07 07:36] 教育・学校
どうなる学校 公立が塾と連携(下) 塾講師に“教え方”学ぶ

                  2008年5月6日中日新聞

 学校と塾の連携は今や受験指導や授業のさらに先を行く。塾は、教員の“武器”である「教える技術」を指導するなど、教員の“先生”に立場が逆転している。「教育をする人」が塾に教えられる関係に、戸惑う声もある。 (井上圭子)

 「教師は魅せて伝える仕事。情報伝達の要素は7%が内容、93%が表現力。ジェスチャーや表情を磨きましょう」「まずは発声練習から。起立! 口を大きく開けて。あ・い・う・え・お!」

 ある土曜日の午後。東京都新宿区の早稲田アカデミーで開かれた「教師力養成塾」。初回テーマは「表現力」。受講生は全員が現役教員だ。

 ビデオを使った自己紹介実習では、講師から鋭いアドバイスが飛ぶ。「一番近くの生徒を見てない」「線が細くて頼りない印象。手を横に広げて話すと堂々と見えるよ」「猫背を生かして、前傾姿勢でもっと手を使うとやる気が伝わる」「話の句読点で相手の目を見て。滑舌を良くするには口の形を意識的に作って」

 受講した教員らは「同僚同士ではここまで本音を出さないし、互いに高め合う余裕もない」「保護者や校長の評価が厳しい今、自分の学校では弱みを見せられない」などと、学校では“技”を磨きにくい現状を口にする。

 同塾統括責任者の大矢純さんは「われわれが伝授するのは『学習する空間づくり』。そのノウハウが学校現場で役立ち、弊社にも新しいビジネスチャンスになれば一石二鳥」と話す。全国の学校から呼ばれ、大矢さんは連日飛び回る。都内でも足立区などいくつかの自治体が昨年度、教員研修の一環として同塾講師を招いた。

 塾の膨張は続く。教員養成の大学院経営に参入した企業もある。学習塾の栄光ゼミナールなどを展開する「栄光」は二年前、千代田区に社会人対象の日本教育大学院大学を開校。現職や「教員の卵」七十数人が学ぶ。梶原宣俊事務局長は「国の教育改革には期待できない。ならばわれわれが先生を変えようと。文部科学省もわれわれの存在を認めた。塾はもう日陰者ではない」と胸を張る。

 「教える技術」という教員の本業にまで食い込む塾。公立校はその“軍門”に下ったように見える。

 昨年、初任者研修に教師力養成塾の講師を招いた多摩地区のある市教委は「従来の研修は授業の組み立てや教材研究が中心で、発声法や板書法など表現方法までは触れなかった。違う視点からの指摘は新鮮で役立った」と認める。だが、こうした「逆転の関係」への負い目からか「将来も継続して協力を求めようというわけではない。自治体名は伏せてほしい」とも話す。

 元公立高教員で「プロ教師の会」の諏訪哲二代表(66)は「学校教員の仕事の八割は人間づくり、二割が学習指導。技術だけでは生きられない世界。塾の売れっ子講師が学校でも有能とは限らない」と塾依存に懐疑的だ。

 その上で本来の公教育のあり方を「社会を形成していく自立した個人を育てるのが学校の役割」と指摘、「『学力重視』の風潮にバカな教委や校長が流され、自己革新力のない教員が振り回されている。人間づくりを真剣に考えている教員は困っている」と批判する。

 受験実績や学力重視に公立校が走り、一方で塾は「日本の教育改革」を旗印に掲げて成長している。両者の境界が薄らぐ中、公教育の意義が問われている。






塾がどうの、公立学校がどうの。
軍門に下った、勝った、負けた。

こんな表現しているようでは、どっちもおしまいだと、私は思う。

だって……この表現の中に、本来教育の主人公である「生徒」の姿が見つけられないから。


何のために、教育をするのか?
それは、生徒のためでしょ?

子供たちに生きる力を付けるために。
子供たちが自ら考え、自らの柱を一本しっかり真ん中に据えて、1人の大人として、社会の一員になっていくことが出来るように。

それをするのが「教育」の目標でしょ?

その視点が全くないんだよね………。どこ読んでも。

私はその方が怖い、と思う。。

記事の最後の方に、ちょっとだけそこに触れている。
重要視されるべきなのは、この視点だと思う。

塾は、塾だ。
経営向上させるために、企業努力をものすごくしている、と思う。

分析や生徒の心をつかむための努力はものすごい。
でも、それはあくまで「利害追求」という視点。

そこは混同したら、まずい。

学校にしかできないこと。
それは、利害は関係なく、子供たちを育てることが出来る場所だ、ということ。

正直言って、教員の評価制度はそれを阻害すると、私は思っている。
逆に言うと、評価しなくては「だめ」な教員しかやとうことの出来ない教育委員会の責任を、現場に押しつている。

昔は評価なんかしなくても、それぞれがしっかり思いを持って生徒育てていたよ?

教育や、教師がおかしくなったのは、周りからの学校への期待が過度になって、評価に左右されるようになって…要するに、「周りの監視」におびえながらの教育活動になってきた頃から。

そんなものにおびえながら教育していたら、人からの思惑に左右されながら教育していたら、芯の通った教育なんか出来るはずないじゃないですか。

先生たちが「生き生きして」いた時代。
わざわざ指導なんかされなくても、先生たちはちゃんと生徒たちの心、つかんでいたように思うよ。

自分たちの「教えるテクニック」なんかね。
まなばなくっても、生徒たちとのやりとりの中で、先生たちもちゃんと身につけられていたんだよ。
先輩の先生たちからも、ちゃんと学び取っていたんだよ。

外に学びに行くくらいだったら。
もっと生徒たちと向き合えばいいのに。
一番の先生は、「生徒たち」だよ。

子供の顔見て。
子供の言葉を聞いて。

そしたら、彼らだってちゃんと反応してくれるはず、なのに。

生徒と向き合う時間を、こういう「研修」に当てるのね。
だけど、そういう先生だけを責められないの。
だって、周りがそれを求めるんだから。

こうやって、どんどん生徒と先生とは、かけ離れた存在になっていく。

これこそが今、教育現場にすでに深く根ざしている「一番の問題」だと思うのだけど。。。

無駄な研修。
余計な事務処理。
こういうことから教師を離して、もっと生徒と向き合う時間を確保しなくちゃ。。

塾じゃ、出来ないこと。
学力重視じゃ、出来ないこと。

学校にしか、出来ないこと。

すでにもう、手遅れではあるけれど。
1人でも多くの人が気が付いて、1人でも多くの現場の人間がブレーキかけて。
一刻も早く方向転換しなくっちゃ。

日本の教育、もうおしまいだよ。。。
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フィンランドの教育事情に学ぶもの
[2008/04/29 12:42] 教育・学校
フィンランドに見た教育の原点
2008.4.28 21:02              MSN産経ニュース

 経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)でトップクラスを維持するフィンランドに、世界中から教育使節団の訪問が相次いでいる。人口527万の“森と湖の国”に起きた教育の奇跡を探ろうと、欧米の競争至上主義者も血眼になっているのだ。しかし、そこには特別な秘密も最先端のノウハウも存在しない。教師への尊敬と1人ひとりの子供を育てたいという愛情が国全体に根差し、大きな花を咲かせていた。(ヘルシンキ 木村正人)

(中略)

 首都ヘルシンキで先ごろ開かれた教育制度セミナーには、米国、英国、日本、韓国など計19カ国の72人が参加した。訪れた小学校のビルマ・ツモイ校長(50)は「子供たちの頭をパカッと開けて物事を詰め込むのではなく、考えることを手伝っている」と話す。授業でも、教師が画一的に教える光景には出会わなかった。英語の授業に参加していたステラさん(12)は「先生のこと、大好きよ」と声を弾ませた。

(中略)

 同国はロシアとスウェーデンの2強国に長く支配され、1917年に独立を果たした。森と湖以外の資源といえば人材だけ。国家の生き残りをかけて取り組んだのが「国民の教育」だ。

 94年の教育改革では、「教える」から「子供を支援する教育」へと根本的な転換を果たした。20人前後の小人数学級で子供1人ひとりとの対話を増やす授業を実現。考え抜く教育はOECDが目指す方向とぴったり合った。

 これまで6回セミナーに参加した都留文科大の福田誠治教授は「主要な貿易相手国、ソ連が91年に崩壊したことでも変化を強いられた」と指摘する。失業率の上昇で福祉制度を維持しながら「小さな政府」を目指したフィンランドは、教育制度の中間管理職を極力小さくして現場を厚くした。

 日本より簡単な教育指導要領はあるものの目安にすぎず、現場の教師に大きな裁量権と責任が与えられた。教師は十二分に専門性を発揮して生徒の成長を支援し、学校・父母・地域・自治体・国家が教師を支える仕組みを作り上げた。生徒と教師の人間関係を重視する教育を「オールド・ファッション」とフィンランド国家教育委員会の関係者はセミナーで強調した。

 (後略)

記事はこちらから



今の教育に必要なのは、これだと思うのです。。

かつて「学校」は文化を学ぶ場所でした。

学校に行けば、知識を得ることが出来ました。
学校に行けば、毎日の生活で触れることの出来ない経験を手にすることが出来ました。
学校に行けば、気が付かなかった身のまわりの事象にも、たくさんの「決まり」があって、その中で理路整然と世の中が動いているという「仕組み」に気が付くことが出来ました。

今の学校はどうでしょう?
そういう魅力があるのでしょうか?

なぜ、学校は「あこがれの場所」ではなくなったのか。

その点についてもっとみんなで考えるべきだと思います。

学校があこがれの場所になったら、絶対みんな行きたくなります。
学校は楽しい場所になります。
そして心から、学ぶ楽しさを知ることが出来るようになります。

それがないのが、今の日本の学校です。


どうしたら学校は、「あこがれの場所」に戻れるのか。

そのヒントが、この文章の中にたくさんあるような気がします。。。


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どっちが正しいのでしょうね?
[2008/04/13 12:54] 教育・学校
<入学式>入学金未納の2人、出席させず 千葉県立高

                  (毎日新聞 - 04月13日 02:41)

 千葉県八千代市の県立八千代西高校(大迫太校長、339人)が、入学金未納の新入生2人を入学式に出席させなかったことが12日分かった。大迫校長は「授業料滞納が目立ち、未納は負担の先送りと思った」と話すが、県の公立高校教職員組合は「非教育的対応」と批判している。

 県教委と同高によると、新入生159人に、入学金、教材費など9万円を8日の入学式に持参するよう求めていた。男女各1人が「お金が用意できない」などと持参せず、式直前、校長がそれぞれの担任に別室での待機を指示した。2人は約40分の式の間、教室と会議室で待機した。

 男子生徒は式前に学校の指示で母親に「入学金を払わないと式に出られない」と電話で事情を説明。母親は「後で払う」と答えたが、学校側は「滞納の可能性がある」として出席させなかった。母親は午前11時ごろ、9万円を持参して学校を訪れたが、式は終わっていた。その後、生徒は校長室で氏名を読み上げられ、「入学を許可する」と伝えられた。

 女子生徒の母親は午後5時ごろ、2万円を学校に持参し、同様に入学を許可された。

 大迫校長は「入学式当日に必要なお金は3月の説明会で伝えている。経済的問題があれば相談するよう話した。苦渋の決断だったが、当然の判断だと思っている」と説明。県教委指導課の田山正人・主任指導主事は「保護者と生徒にはつらい思いをさせてしまった。事前に入学金についての十分な説明をしており、学校としてはやむを得ない判断だったと思う」と話している。

 教育評論家の尾木直樹・法政大教授(臨床教育学)は「極めて機械的、官僚的対応。学校側は2人だけではなく、生徒、保護者に謝罪すべきだ」と話している。【神足俊輔】



・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆


私はねぇ……やっぱりこの教育評論家の人がおかしいと思うんですが。

だって「入学金」って、「入学させてもらうんだから払います」というお金でしょ?
それを払わないって言うんだから、「入学する気がない」ってことなんでしょ?

そのお宅の事情はわかりません。
でも、世の中にはルールってものがある。

高校は、義務教育じゃなくて、「勉強したいから自分で行くことを決める」人が行くところ。入れてもらうところなんですよね。
たとえ今、ほぼ全入状態になっているにしても…実際、お金がないからあきらめる人だって、いることはいるんです。

当日の朝に言われたことじゃない。
前から言われていることで。

「お金はちゃんと払います」というのは、入学の条件としてもちゃんとあるはずで。

誓約書を書いて出すんだから、そんなこと知らなかったで済まされるはずがないでしょ。

義務教育の学校給食費の滞納だって、それがおかしいとか恥ずかしいとか言う感覚にならない今、それが問題になっている今、なぜ「高校の」入学金を払わない人が入学式の出席を拒まれて、学校が責められなくちゃならないんでしょうね?

この事例の場合は、入学取り消しになっても当たり前だと私は思うのですけど。
そして、こんな当たり前のことが、記事になるのはおかしいと、私は思うのだけれどもね。

教育費は、高いです。
国から補助の出る義務教育でもかなりのお金がかかっています。
ましてや、高校だったらかなり必要なことはわかるはず。
それを承知の上で、高校に行かせることにしたんでしょ?親も、子供も。

うちの娘も、今年高校に入りました。
入学金については、払わなくちゃ取り消しになるからと、うちだって裕福じゃないけれど、ちゃんと絞り出して払いましたよ。

こんな記事が出ることもおかしいし、学校に対しての批判が出ることも間違っていると私は思います。

社会というのは、ちゃんと代価を払って成立していくものだという「教育」だってなされるべきだから、入学取り消しにならなかっただけでも十分に情状酌量していると思うし、そのことに感謝こそすれ、批判するのはかなりお門違いだと私は思いますけれど……。

………私の考えは、おかしいんでしょうか?






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じゃあ、なぜ、みんな歌わないか。
[2008/03/31 01:57] 教育・学校
昨日に引き続き、学習指導要領についての記事から。



【主張】新指導要領 国歌を「歌える」のは当然
2008.3.30 03:06                           産経ニュース

 小中学校の新しい学習指導要領が官報で告示され、道徳教育で愛国心をはぐくむことや、国歌を歌えるよう指導することなどが明記された。公教育で身につけるべき当然の指導内容だ。

 告示された学習指導要領は、2月に公表された指導要領案に広く意見を求め、それを参考に手直しされた。

 主な修正は、道徳教育について総則で掲げた目標に「わが国と郷土を愛する」ことを加えた。国旗・国歌の指導では小学校の音楽で、君が代は「歌えるよう」指導するとした。

 また国語では古典学習の一環として読み聞かせで、昔話のほか「神話」も例示した。

 修正によって明確化されたこうした指導内容は、戦後の学校教育でおろそかにされてきた。

 教育現場では愛国心育成などに対して反発がある。卒業・入学式にしても一部の教職員が国旗掲揚、国歌斉唱を妨害するような行為が依然としてある。

 今年の卒業式でも大阪府門真市の中学校で国歌斉唱のとき、それまで起立していた生徒が次々に座る問題が起きた。

 一部の教員が国歌斉唱時の不起立を促していた可能性があり、起立して斉唱した卒業生は1人だけだったという。門出を祝う厳粛な卒業式にそぐわない光景だ。

 教育基本法が改正され、幅広い知識や教養とともに、公共心や規範意識を育てることが重視された。戦後教育の弊害が見直されようとしている。

 今回の修正に対しても教職員組合の日教組や全教は「愛国心押しつけ」などと批判している。

 しかし、自分の生まれ育った国や郷土について深く知ることは他国をも尊重することにつながる。自国に誇りを持ち、情報発信していく人材を育てる教育は、国際化のなかで必要性が増している。

 国づくりの歴史や先人の伝記など、祖父母や親から世代を超えて伝えるべきものがなかなか伝わらなくなっている今だからこそ、学校教育での指導が期待されているのである。

 新指導要領ではゆとり教育を見直し、授業時間や学習範囲を増やした。知、徳、体ともバランスのとれた人材育成がねらいだ。

 指導要領改定の趣旨を理解せず、妨害したり形骸(けいがい)化させることはもうやめるべきだ。公教育再生へ意識を変える必要がある。




まぁ、当然こういう話も出てくることは予想されたけど。
でも、おかしいと思わないのだろうか?この考え方。

>>公教育で身につけるべき当然の指導内容
>>門出を祝う厳粛な卒業式にそぐわない光景
>>祖父母や親から世代を超えて伝えるべきものがなかなか伝わらなくなっている今だからこそ、学校教育での指導が期待されている
>>指導要領改定の趣旨を理解せず、妨害したり形骸化させる

まず第一に。
この記事では、一切具体的にこういう方策をとるべきだ、という点については論じていない。
単に新指導要領に文句を言う人間は愚かだ、と切り捨てているだけで。
じゃ、実際どこをどうしていけばいいのか、という根本にはまったく触れていない。

その中で唯一書いていることは、
「学校教育での指導が期待されている」………要するに、学校にお任せしておけばいい、という人任せな視点。

現在の社会を乱している考え方に流れているものは、「○○に任せればいい」という思い。
それが結局、うまくいかないのは○○のせいだ、という責任の押しつけにつながっている考え方だ。
正論を論じているようで、とても怖い考え方だと思う。

もともとは。
道徳の心、人や物を愛する心の根本は、家庭で育まれるべきものだ。
学校は、なんのためにあるかといえば。
「勉強するところ」なのだ。

すでに、家庭である程度しっかり人格形成された子供たちが、学ぶ場所、なのだ。
スタートは、「家庭教育である程度ちゃんと集団生活が成り立つ」という最低限の道徳のルールが成り立っている、というところにあるべき学校教育。

それが、今はまったく成り立っていない。
家庭で学び終えているはずのことを、学校がすべて背負っているのが事実だ。
そして、なぜ、家庭での教育力が低下しているか。
社会自体に余裕がなく、ゆとりがなく、それについてゆっくりと考える時間がないからだ。

そこからして、もう、間違っているのだ。

卒業式に、なぜ、国歌と言われている曲を歌わないのか。

これは学校現場だけの問題ではないとわたしは思う。
戦争に対しての責任から逃れようとし、過去の罪を覆い隠そうとする人々の存在。
けれども、隠そうとしても決して隠せるものではない事実は、いつまでも深く人の心に残っているから、それだったら、隠さずにそのあたりについてもう白日の元でいろんな意見を戦わせればいいのだ。

あちこちで、変に覆い隠す。
あちこちで、訳のわからない論争が起こっている。
国歌に対しての人々の気持ちが統一されないのも、いつまでもその歌に込められた人の思いをちゃんと並べて整理していかないからだ。

規則にして押しつけてむりやり歌わせて、解決する問題ではない。
学校現場だけの混乱ではないのだ…。

実際、地域によっては国旗を揚げることや国歌を歌うことに対しても、抗議する人々のいるところがある中で。
学校がたとえ一生懸命に決まったことだからといって歌わせたからって、地域やそれを見ている子供たちの心がおさまることはない。

国歌を、なぜ、歌わないか。
こんな形で、最初からはっきりと、国民に示せないような指導要領の決め方を、何で国はするのか。

そこを曖昧にしたままで、「指導要領改定の趣旨を理解せず、……云々」という表現は、あくまでも表面的な正義を振りかざしているに過ぎないとわたしは思う。

そう…理解すべき「趣旨」自体があまりに曖昧で無責任すぎるから。

授業時間を増やせばいい、という問題ではない。
授業内容を、増やせばそれでいい、という問題でもない。
ゆとり教育は、なぜ失敗したのか?
それを求めるものも、指導するものも、納得の上で始まったものではなかったからだ。

わたしは、ゆとり教育は今の世の中には本当に必要な要素が含まれていると思う。
ちゃんと理解し、共通の地盤にたって行われれば。すばらしい成果が出るはずの理念だった。

それが、なぜ、失敗したのか。
そこへの反省も見直しもなく、ただ、元来た道に戻るだけでは、また同じ過ちを繰り返すだけ、ということにどうして気が付かないのだろう。

もう一つ言わせてもらえば。
指導要領について形骸化させているのは学校現場では、ない。
むしろ、上からの指導を何とかしようと突然与えられた物に対して必死で動き回り、思い切り混乱しているわけで。

思い切り振り回されたあと、ようやく形になってきたかと思うとあっけなくころっと方向転換で、また混乱に逆戻り。
こういう現場については、「批判している」とか「形骸化させている」と、責任を押しつけられて終わりでは、子供たちのために頑張った現場の人々はあまりに悲しいと思う。

ゆとりに対しての批判も、まずは学校現場の周囲の方から起こってきたという認識があるが、それはわたしの記憶間違いだったろうか?


改訂された指導要領は、いったい何処にむかっているのか。
それすらもつかめず、十分に討論されたともいえない状況で、そこについていけ、というにはあまりに子供たちのこれからに対して、失礼だ、とわたしは思う。



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