最近の記事
- 久々にオススメグッズ。 [2012/04/28]
- 3月11日は「はじまりの日」でした。 [2012/03/11]
- 人とつながる、人につながる。 [2012/03/04]
- 被災地をめぐっての3日間~7希望が生まれる時 [2011/09/29]
- 被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(4) [2011/09/29]
久々にオススメグッズ。[2012/04/28 11:55] ひとりごと
最近、活動の場がFacebook中心になっていて、ブログの方にはなかなか顔を出さなくなってしまっています。
そもそも、この「本日のオススメメニュー」のブログは、毎日の生活の中でいろいろ「これはいいじゃん」ってものをご紹介するためのブログだったんですけど、みんなFacebookの機能でまかなえちゃうもので……。 けれど、久々に「オススメグッズ」ができたので、こちらに書き込みます。 これです! ![]() 奥にあるのが私のMacBookPRO13インチくんです。 そのお膝にちょこっと乗っかっているように見えるのが、iPad用のキーボードを備えたケース。 iPadは軽くて持ち運びに便利で、携帯のメールが嫌いでスマートフォンを使わないわたしにとってはとてもありがたいモバイルツールだったんですけど、いかんせん画面のソフトキーボードが使いにくい! それでやっぱり相変わらず、iPad使う時にも最低限のキー操作しかしなかったのですが。 この外観。 まるでMacBookPROの兄弟のような佇まい。 そして実際、キー操作の感じが格段に向上しました! いいです、これ。 使いやすいし。 今までに比べて、ちょっとだけ重くはなったんですけど、でもバッテリー積んでいてキーボードにも充電しておけばiPadとつないでiPadに充電する事も可能です。 それもまたプラス要因。 そんなわけで、久々にご紹介する「オススメメニュー」。 気になっている方いたら、お試しあれ。わたしはこれ、断然オススメします。(^_^)
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3月11日は「はじまりの日」でした。[2012/03/11 10:49] ひとりごと
3月11日が、やって来ました。
朝一番は曇って寒かったのですが、今、青空が見えてきました。 1年前の今日の天気はあまり覚えておりません。 けれど、長い揺れを感じて不安を感じたあの感覚は今でもはっきりとよみがえって来ます。 今、わたしの横では、娘が眠っています。 去年の今ごろ、希望の短大に行かれるかどうかわからずに不安な毎日を過ごしていました。 その娘は、無事に短大に合格して一年生の一年間を終えようとしています。 去年一年、1人での生活をはじめて少しずつ社会に出るための準備を頑張り、新しいことにぶつかってたくさん泣きました。 数日前からわたしのところに遊びに来ていて、1年前の今日と同じようにわたしの横に娘がいます。 けれど、娘の中にあるもの、私の中にあるもの、わたしと娘の間にあるもの。 そして、今ここにいないけれど、息子の中にあるもの。 何も変わっていないように見える私たちの中は、多分この一年間で大きく変わってきたのだと思います。 それは、私たちだけではありません。 周りの人たち。 自分を取りまく人のつながり。 あたらしくであった人たち。 それぞれの生きざま。 世の中の流れとその元にある人の想い。 ………すべては、この一年で大きく変わっているのを感じます。 この世の中で、もっとも愚かなのは人間であること。 それと同時に この世の中で、明日を切り拓く一番の可能性を持つのも、人間であること。 そのどちらも、感じて来ました。 そのどちらがこの先をより強く彩っていくのかは、今はまだわかりません。 だって、まだ、はじまったばかりですから。 そして、まだ、何も終わっていませんから。 すべては……「これから」です。 3月11日に「はじまったこと」は、まだこれからです。 あそこから一年間で、それぞれが見、聞き、感じ…… そして、得たもの、学んだもの、失ったもの、 見過ごしてしまったもの、忘れてしまったもの、思いだしたもの…… そういうすべてを元手にして、私たちは今日、また、新しい一年を踏み出すのだと思います。 ・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆ 私自身の「スマイルコーディネーター」としてのこの一年を、振り返ってみます。 3月11日以前から運営してきたメールマガジン「うつのくれた贈り物」とブログ、「イメージできれば世の中は変わる」……この2つを3月11日以降、書けなくなりました。 何を書いても、人のために、という想いがどんなにあっても、自然の脅威の前にある自分はあまりに小さく、何もできない存在に思えて……何を書いても、どんなことをしても、自分には何もできない……… 目の前で展開している惨状に対する衝撃……それに対して自分の言葉の力のなさに、自分自身の力のなさに、為す術もなく、言葉を失ってしまいました。 けれど。 そこにあるのは限りない「絶望」だけではありませんでした。 Twitterで、発信を続ける人たちがいた。 そして、このFacebookで、日本中、世界中の人たちが、心を寄せ合い、励まし合い。 決してあきらめずに発信し、行動をしている人たちとたくさん出会いました。 ![]() わたしも、出来る事をしたい。 Twitterで受信と発信を繰り返し、やがてそれがよりFacebookで有効に機能することを感じ、ウオールでのつながりと発信をさらに発展させたくてはじめたのが「笑顔をつなぐ~スマイルコーディネーター」のFBページでした。 さらに、「Keisuke Kuwata/桑田佳祐」のFBページで出会った人たちとの交流。 そこでの出会いと励まし合いが、「自分にできる事をやればいい」という想いに繋げてくれました。 ![]() 少しずつ、少しずつ。 わたしも「言葉」を使って出来る事を、とTwitter、Facebook、そして書けなくなっていたブログ……メールマガジン、などを使いながら、少しずつ、少しずつ、また「受信」「発信」……そして、それらを繋げることをはじめたのです。 やがて。 以前からずっと、心の奥にあった想い、「学校(人々の心の居場所)を作ろう」という想いが、この自分にできる事、発信、受信とそれをつなげることである、ということと結びついていきました。 そして生まれたのが、「信州あそびの杜学園」というプロジェクトでした。 人が生きていく上で、人と生きることがとても大切で。 それぞれの人が輝いていることも、とても大切で。 それは、毎日たくさんの喜びと悲しみと……いろいろな気持ちの元につながっていて。 そして、その感情が次につながる原動力になっていく。 それをつなげるのが「学び」であり、それを得ることによる「感謝」の気持ち。 それを少しでも多くの人たちと感じたい。 そんな場所を作りたい。 そうして、みんなでつながって、1つの大きな流れを一緒に感じることができたなら。 きっとそれは、ものすごく大きな力となって、どんな苦しみも哀しみも、一緒に乗り越えてより新しい未来へとつながる力になるはずだ。 そのために、私は私の出来る事をやろう。 そんな思いの結実が、今までのわたしのすべての物事と結びついて生まれたのが「信州あそびの杜学園」のプロジェクトの根っこです。 あそびの杜学園は、この4月からスタートします。 その準備を今、すすめています。 今日は3月11日。 そして明日3月12日は、長野県栄村震源の長野県北部震災が起きた日でもあります。 昨年、9月に茨城~福島~宮城を、そして10月に長野県栄村を、子ども達と回ってきました。 そこで感じたこともすべて、自分の中に蓄えて。 そうして、この一年間で出会ったたくさんの人たちとのやりとりや、そこから得たもの、ふくらんだもの、そういうものも加えながら。 私はこの先、今日をまた新たな一歩の日としてこの先を歩んでいきたいと思います。 今、この日、この瞬間をともに生きる皆さんと共に、これからもずっと。 3月11日。 昨年のこの日は、そのすべての「はじまり」の日でした。 そして、今年のこの日、その「はじまり」から動き出したことが、さらに力を得てもっともっと前にすすめるように。 その想いを新たにして、感謝と祈りを持って、今日の1日を感じて行きたいと思います。 ………この文を読んでくださる皆さんと共に。 ありがとうございます。 ![]() *この記事は、わたしの発進しているすべての場所に同じ文章で記載しようと思います。重複してお読みになっている皆さんには、同じ文章で失礼します。 |
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人とつながる、人につながる。[2012/03/04 11:12] ひとりごと
いつの間にか、1人でいろいろやることが当たり前になっていました。
私は3人姉弟の一番上で、母が病弱でよく寝込んだこともあり、弟の面倒をみたり、高校の時には入院した母の代わりに家事を請け負ったり、9才年下の弟の小学校の授業参観に行ったこともありました。 1人で何かやることが当たり前で、逆に1人で出来ないことがあるとそういう自分が許せなくて、できるようになるまで徹底的に頑張る人間でした。だから、子供のころから計画的に物事を進め、無駄な時間を過ごさずにてきぱきとできるだけ多くの物事をこなせるようにと工夫する人間でした。 それは、家庭を持つようになるまでずっと続きました。 自分の出来る事を組み合わせて計画を立て、そしてそれが実現するように足りない力を勉強や努力でつけていき、自分に必要だと思えば研修や講座を受けまくりました。 おかげで、大概のことはできるようになりました。 1人の人間として生きて行くには……多分充分すぎるくらいのものを身につけたんだろうな、と思います。 学校の先生としても、その力はとても役に立ちました。 子ども達の前に立つときに、さまざまな技能や技術で子ども達にいろいろな「学びの面白さ」「出来る事の喜び」を感じさせる工夫ができました。とっさの時の臨機応変な対応にも、そういうものはとても役に立ちました。 けれど、それはあくまでも「自分ひとりの生活」が成立する段階での満足でしかありませんでした。 家庭を持ち、自分の時間が自分1人で思うように使えなくなる。 それは決して、いやなことではありません、むしろ幸せなことでした。 だから、自分のためだけでなく、家族のためにより時間を有効に使えるようにと私はさらにさまざまな学びを求めました。 自分と仕事と家庭と。 この3つ共をしっかりと成り立たせよう……それも、生来の完璧主義が伴って、どれも「しっかりとした形で」成立させよう。……その思いの中に、私は自分の精一杯をつぎ込んでいったのです。 結局、それは無理なことでした。 だって、私は1人で生きていたわけじゃなかったから。 私と、家族。そして学校の生徒や先生たち。 みんな違う人生や違う思いを持って生きているわけですから。 私の想う「理想のかたち」「完璧なすがた」が、周りの人たちにとってそうであるとは限りません。当然、そこにはゆがみもぶつかり合いもできるのです。 そして、そこで、私は「1人で頑張ること」の限界にぶち当たったんだと思います。 うつ病になりました。 まず、1回目のうつ病で、仕事の場で1人で頑張ろうとすることの限界を感じました。 復帰して「人と生きること」についてを考えるようになり、なんでも自分でやろうとするところから、周りの人間を見つめるようになったのかもしれません。 そこで私は、カウンセリングを学びました。その頃の私には、やっぱり必要だったんだと思います。 そして、今度はひとりで周りの人間すべてを守ろうとして、また壁にぶち当たりました。 2回目のうつになりました。 2回目のうつから立ち直ろうともがく中で、自分1人ですべてを守ることが無理であり、たくさんの人が自分の周りにいて、一緒に頑張れる人もたくさんいて、自分がすべてをやろうとしなくてもちゃんと同じ思いで頑張ろうとしている人もたくさんいることを学びました。 「つながること」によって、自分1人では出来ないこと、なしえないことが出来る事。 それを私は、2回目のうつから立ち直ってここに至るまでに感じて来たのだと思います。 今でもまだ、1人で頑張ろうとする自分は残っています。 でも、それはそれで、愛おしく想う自分がいて、そんな自分をきちんといたわりながら、けど、人と共に力を合わせ、出来ない事を補い合いながら進むために……そのために、自分が何ができて、どんな関わりができて、……もっと言うと、自分が「この世の中に何のために存在しているのか」が見えてきたような気がします。 私は、いろんな力を身につけ、いろんな技能を身につけて、それによっていろいろな「経験」を重ねました。 多分、その経験は、いろんな面で役に立ちます。いろんな人の、いろんな立場を理解するのに役に立つのです。 そうしたら、そんな私に出来る事はなんなのか? 人と人とを繋げること。 これが、私がこの世に生まれてきて出来る事なんだ。 そう思うようになりました。 今、私は、新しいプロジェクトを計画しています。 「信州あそびの杜学園」というプロジェクトです。 ![]() うつや不登校、引きこもりなどで「外の世界」とつながることが難しい人たちに、外との風穴を開けて「内と外とを繋げる」こと。 世の中や周りの人たちのために頑張っているたくさんの個人やグループ、学校や団体やプロジェクトがものすごくたくさんあるのに、なかなか横のつながりができません。そんなそれぞれがお互いの持っているものをより広い社会に活かしていき、それぞれの足りないものを補い合うことができるように……そんな「社会のために頑張っている人びとを繋げてネットワークを拡げる」こと。 それから、「学び」を求めるたくさんの人がいて、本当の学びが埋もれてしまいつつある中、真の「学びの場」を作りあげている場所も人もたくさんいる。そういう場を生み出す可能性を持ちながら、なかなかそこに至れない人もたくさんいる。そういう「真の学びを結びつけてどこでも学べる場にしてしまう」こと。 そしていずれ、長野県という豊かな自然と資源を持ったこの土地を、「1つの学校」としてしまうこと。 そんな流れを作りたいと、そう思ってはじめます。 もしかしたら、こんな風に進んでいったら。 長野県が1つの「信州学園」として成立し、それがたとえば「北海道学園」とか「福島学園」とかと結びついて、その先日本自体が1つの大きな学びの場として「日本学園」になっちゃったらすごいなぁ~。 そう、日本はそれだけの国なんだとわたしは信じていますから。 日本の国はそれだけ豊かな自然と……そして、豊かな心を持つ人びとを有する国だと誇りに思っていますから。 それを教えてくれたのは、昨年の3月11日の東日本大震災と、よく3月12日の長野県栄村を震源とする長野県北部地震でした。 もうすぐあれから一年たちます。 一年間で、ここまですすめることができました。 この先、私にはあとどのくらいの時間があるかはわかりません。 でも、私が進み、私がより多くの人とつながり、そして、そこで、地域が育ち、子ども達が育ち、さらに多くの人やものや地域とつながって拡がっていったら、たとえば私がそこからいなくなっても………私が「1人で何もかも頑張ろう」としなくても、そのつながりはその先の道をどんどん拡げていくのだと、そう思います。 たぶん。 ひとりで何もかもできていたとき。 私の「世界」はそこまでの狭いものだっただけなんです。 けど、私が1人で生きていくだけではない広い世界がちゃんと存在した。 だから、私は、自分1人の限界を感じ、周りにもっと広いものが開ける可能性を感じた。 つながることの意味と重要性と……そしてもっというとその「可能性」は無限です。 どこまでも拡がっていく宇宙は無限なように。 人につながり、人とつながり、そうして拡がっていくネットワークは……また無限の可能性を秘めているのです。 そんな思いの中ではじめます。 「信州あそびの杜学園」。 ![]() 4月からスタートに向けて、現在準備中です。 もし、この記事を読んで何かを感じて下さったら。 あなたもどうぞ、あなた自身の大きな可能性を持ってこのネットワークにつながって下さい。 お待ちしています。 FBページ「信州あそびの杜学園」→https://www.facebook.com/asobinomori HPは現在準備中です。 |
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被災地をめぐっての3日間~7希望が生まれる時[2011/09/29 22:48] ひとりごと
「あ……私、これだったらわかる。」
娘が選んだのは小さなクリのような形をしたバッヂで、お地蔵さんのように胸の前で手を合わせていた。 このバッヂは「希望のたね」という。 今回の東日本大震災が起きた3月11日以降、娘と2人でずっとラジオなどで情報を得ながら「出来る事をしていきたい」と思い、募金箱を見るたび募金をし、支援物資を募集している情報には自分たちで提供できる物はないかと聞き耳を立てた。 私が所属しているバンドでもライブで募金を集めて送ったし、取材活動や地域のボランディア団体への参加など、 さまざまな形で「応援の気持ち」を表してきた。また、支援活動に取り組む人や団体があるとその活動を応援する気持ちで色々なグッズを購入もした。 そういう被災地を応援する時によく見られるのが「頑張ろう」という言葉。 「頑張れ」じゃ人ごとみたいだし上から目線。それだったら一緒に、という気持ちを込めて「頑張ろう」かな……というそんな思いがこもっているのだろうけれど、娘はそれもやっぱりあまり気に入らないようだった。 「だってね、あまりに仰々しいもの。」 気合いを込めて頑張る、という感じはあまり好きではないという。その気持ちはよくわかった。いかにも応援しています、というそういう「気張り」は何となく肩が凝る。だけど、このバッヂが生まれた背景と、その想いを読んだ時にわたしもものすごく共感し、そして目の前に迫る東北行きにこれを持っていこうと思ったのだ。 ![]() 娘も、たぶん同じ思いだったのだろう。「うん、これだったら私もつけるよ。」そういって1つ手にとると自分のバッグにそっとつけた。 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: このバッヂをデザインしたのは、イラストレーターの「ゆきつぼ」さんです。 彼女は、長野県栄村の出身です。 長野県栄村。ここはあの3月11日の東日本大震災のわずか半日後……3月12日の午前3時59分に発生した震度6強(M6.7)の地震に襲われたのです。「長野県北部地震」と命名されたこの直下型の地震は、あの東北がなかったら衝撃的な災害として報じられたに違いありません。 参考:長野地震(M)6.7被害の様子【3.12栄村大震災】 津南町・十日町市の地震被害【栄村大震災 震度6弱】 けれど、東日本大震災のあまりの被害と衝撃度の大きさに、ほとんど取り上げられることがないままに 「忘れられた被災地」となってしまいました。事実、今回の被災地巡りで出会った人たちは「長野県北部地震」のことも「栄村」のこともまったく知りませんでした。 けれど、この「過疎地」栄村は忘れられた状態を嘆くことなく、淡々と地域が力を合わせて復興に向けて動いています。このゆきつぼさんの「希望のたね」もそんな中から生まれたのです。(ゆきつぼさんのご実家も、栄村で今回被災しているのです。) わたしがこの「希望のたね」のことを知ったのは、被災地巡りを計画してその準備を進めていた9月はじめのことでした。Facebookのお友達がこの話題を紹介していて、気になってゆきつぼさんのブログを見に行ったことがきっかけでした。 そこには、この「希望のたね」が生まれたきっかけ、そしてゆきつぼさんの想い、それから「希望」についてがやさしく静かな言葉で語られていました。 「希望のたね」のキャラクターを作るとき、本当に一生懸命考えたのです。それは、自分自身の実家も被災しているということ。 当たり前だと感じていた故郷の姿が、一変したということ。 このつらい気持ちを、ただつらいと吐き出すだけではなく、 何かにしたい。 だって、本当につらいのは、そこに住んでいる当事者たちだから。 自分も実家が被災した被災者だ、つらいんですとは、到底言えない。 私には、私の家が、他にある。 だからこそ、このどっちつかずの気持ちを、 だからこそ、そんな自分こそができる何かを、 カタチにしていくべきではないのか。 そう思いました。 (「ゆきつぼの想うツボ」8月7日「希望のたねに込めた想い」より抜粋) 私も……今回の震災に当たって、本当にやるせなかったのです。自分は被災したわけではありません。でも、その地にいる人たちの想いはイメージできました。自分の今までの経験や体験に重ねても、とても追いつかないくらいに哀しい気持ちなのだろう……辛い気持ちなのだろう。 だけど、自分にはお金も力もありませんから、何もできません。それどころか、自分自身の生活に追われて精一杯生きるだけの毎日でした。 それでも。人として、哀しい思い、辛い状況、苦しいところにいる人たちのために何かがしたい。それはしかし、娘が言うように「頑張れ、頑張ろう、一緒に歩むから!」という激励とか励ましではなくて……どちらかというと、心を寄せる、そっと寄り添いたい……そんな思いでした。 確かに、被災地は今大きな被害を受けて大打撃の中にいます。けれど……生きる、ということにおいては誰もがそれぞれに必死なのです。生きるのに精一杯で、お金も時間も知識も力も何もない自分が、「人のために力を貸す」ことなどは出来ません。 被災地のへの想いは、この先の日本への想いにつながりました。それはまた、ここから先の明らかに厳しくなる情勢の中に生きる子ども達への想いにつながりました。子ども達の未来に希望を持ちにくくなっていたのは震災の前からのことでした。子どもだけではなく、大人たちもだいぶ諦めていたように想います。諦めて投げ出して、変わらない、どんなに頑張っても未来に夢など持てない……そんな人たちはかなり多かったのではないでしょうか。 それが今回の「震災」という、明らかに未来に大きな影響を及ぼす「被害」が目の前にひろがった。 この危機は……尋常じゃなく、無くしたものは大きく、そしてみんなで踏ん張らないときっとつぶれてしまうに違いない……日本の「未来」は。 多くの人が被災地に心を傾け、さまざまな形でその支援のために動き始めました。「頑張れ」「頑張ろう」……その想いはしかし、被災地のための物ばかりではなかったのじゃないかと私は想うのです。 これまで、未来を諦めかけていた大人たち。もうこの先変わりっこない。未来に夢など無い。そう想っていた人たちが、被災地の惨状とそこからの「復興」という具体的な目標を目の前に突きつけられた時に「頑張らなくては!」と思ったのではないのでしょうか……。 つまり、「頑張れ」「頑張ろう」は、被災地にむけての言葉と同時に本当は未来を諦めたくなかった自分への激励の言葉でもあったのではないのでしょうか? :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: こういうやるせない状況に陥った時に、「頑張らなくちゃ」と気持ちに活を入れることは、1つ前に進むための手立てです。けれど、あまり「頑張って」進むことは、長続きしません。 私が被災地の人たちと「共に頑張って」未来を作りあげよう、という気持ちにならなかったのは、これまで日本という国全体がとにかく「頑張って」ここまで来たからでした。頑張っても頑張って、もっともっとよい未来になってきたかというと、実はそうではない。逆に頑張ることに意味を感じられないような社会、政治、国の有様に諦めムードが漂っていたように想います。 だから私は、今回の被災地に対しても、気持ち的に応援したいと想いましたが、「頑張って」何かをしようとは思いませんでした。日本の未来、私たちの明日、そういう面で考えた時に、一瞬即発的にエネルギーを爆発させて頑張るよりも、自分が自分のままで気張らずに力を入れずに出来る事、しかもずっと続けられる事をやっていこう、とそう想ったのです。 それは、うつ病や息子の不登校、親の介護問題などが一気に自分にのしかかってきた時期、頑張っても頑張っても先が見えず、どんどん力も気力も失われていった自分の姿と今の日本の姿が重なったからかもしれません。本当に苦しかった時、自分にこの先を思い描けなかったあの頃に、私が掴んだ「次の一歩」への道は……「私は私でいいんじゃないか」ということでした。 今、自分のまわりには大切な子ども達がいて、自分は生きていて、ちゃんと生かされている。 まわりの人のためとか、社会のためとか、学校のためとか生徒のためとか、ものすごく頑張ってみても自分自身がきちんと自分の足で立って笑顔でいられなければ、必死になっている自分をまわりは心配して結局はみんなが苦しくなるだけなんだ……。 私は私らしく、自分に与えられた物の中で毎日をしっかりと生きること……そうした時にはじめてまわりに対しても笑顔で……心からの笑顔でその喜びや幸せを伝えられるのじゃないか、そういう私を見て、まわりもまた一緒に幸せになっていくのじゃないのだろうか。私が自分の子ども達の笑顔に救われ、明日に向かう力をもらえるように……私もまた、自分の笑顔で感謝と喜びとともに生きて周りの人たちと一緒に幸せになっていくのじゃないだろうか。 今その時を自分の足で立って、自分らしく生きる事。 それが何よりも「明日」につながっていく一番の力になるんじゃないだろうか。 私自身の身に起こったこと、それは震災と比べようがないのかもしれませんが、けれど今回の被害に限らず人は生きていく上でものすごく大きな波や自分の足場がぐらつくような想いや、やりようのない深い悲しみの胸の痛みを感じて行きます。それは人それぞれで比べようのない物です。それを1人1人が乗り越えて、毎日をしっかり生きること……生きていること、生かされていることの幸せを受けとめて、それに感謝して、自分なりに生きる事……それが何よりも「明日」への大きなかけはしになるのではないのでしょうか。 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 「希望のたね」のデザインを見た時にものすごく心惹かれたのは、胸の前で両手を合わせて静かに微笑むお地蔵さんのような穏やかさでした。力みも気張りも全くなく、ただ静かにそこにいるイメージでした。そしてその頭のてっぺんから小さな芽。やがてそこからは葉が出て伸びて、花が咲くかもしれないし、大きな木に育っていくかもしれません。「小さな芽」は、この先を予感させる「希望」なのです……。 自分で出来る事をやりながら、自分のままで生きる事。 今を生きて、そうしてそんな「今」がつながっていったら……「もっともっと」と先ばかり見ず、充実した「今」を生きて、それが笑顔につながっていったら。 まっかな夕日が翌日また、朝日としてのぼってくるように「今」は必ず明日につながっています。 今を生きる事で明日の希望が芽を出し、葉を茂らせ、やがてたくさんの花を咲かせ、実を結ぶことになっていくのだと……そう想うのです。 今を生きる事……それは明日のために、日本のこれからのために、さらにそれは子ども達の未来のためにつながっていきます。 それぞれの人が毎日を生きて、そして生かされていることに感謝すること。 それが明日への「希望」を育てることになるのです。 ![]() 被災地をめぐっての三日間の記録のまとめ、長い文章におつきあいくださりありがとうございました。 私はこのあと、10月の連休を使って長野県栄村と十日町……長野県北部地震の被災地を子ども達と訪れる予定です。そこにまた、感じるところがありましたらお伝えしようと想います。 この文の中から少しでも、皆さんの「明日」につながる希望が見つかりますように……。 *なお、「希望のたね」は現在も販売中です。ゆきつぼさんのブログに販売しているところが書いてあります。もし、あなたも「希望」を手にしたいと想ったら。そしてその種を誰かと育ててみたいと想ったら。どうぞ是非手にとってみて下さい……きっと優しい気持ちになれると思います。 |
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被災地をめぐっての3日間~6「明日」のためにできること(4)[2011/09/29 00:59] ひとりごと
「次の日から食べ物がほとんど無く、食パンを4分の1にしたものが1人分でいつもおなかがすいている状態でした。そんな日が何日か続いていました。」(石巻 小6)「その時はすごくおなかがすいて死にそうでした。ぼくの友だちもすごくおなかがすいてもう死んでんじゃないかと思うくらいだら~としていました。そうしている間におにぎり1個ずつわたされとてもうれしくて十分くらいかけてたべました。」(南三陸町 小6) 「震災の前、大好きな私の家で家族みんなで生活していたこと。お母さんと一緒にご飯を作ったこと。家族みんなで食べたこと。いつでも電気がついて蛇口をひねれば水が出たこと。当たり前のように思えていたことその1つが決してあたりまえなのではなくて、とても大切で幸せで何よりも宝ものだと思うのです。」(南三陸町 小6) 「よるになるとさむくてみんなでくっついて、ねました。カーテンをかけてねました。おなかがすいてさみしくて、はやくかぞくにあいたかったです。でも先生たちがずっとおきててくれてうれしかったです。」(気仙沼市 小1) 「私は、この震災で多くの物を失いました。唯一残ったのは、命です。この命は、今まで以上に大切にし、亡くなった人の分まで一生懸命に生きようと思います。」(気仙沼市 中2) 「1ヶ月たった。ご飯もだいぶよくなり、ご飯・おかず・みそ汁が出るようになった。この頃になると店も開店して、買い物もできるようになった。母に、『何か買ってあげる』と言われても、今なにがほしいのか?前は、ほしい物がたくさんあったのに、今は何がほしいのか、わからないぼくがいた。」(釜石市 小4) >>>文藝春秋社8月臨時増刊号「つなみ」~被災地の子ども80人の作文集~より引用<<< :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 震災後に、たくさんの人びとが現地に支援物資を運ぶ活動に取り組んでいました。当時自身で動くことができなかった私は、出来る事……と考えた時にそういう支援活動を取材で取り上げ、記事としてWeb上に掲載することで支援活動を応援すると共に『被災地の現実』を伝えて知ってもらう活動に取り組みました。 その活動の第一歩になったのが長野県小布施町の浄光寺を中心に今でも活発な支援活動を行っている「笑顔プロジェクト」の取材記事でした。五回連載の三回目の記事では、メンバーの1人が最初の支援活動に女川を訪れたときの報告記録を取り上げました。 『女の子の3人が私のところに来て、 「私ね、クッキー大好きなの。本当に嬉しい、ありがとう。」 「久しぶりのおやつです。」 「おやつの中でクッキーが一番好き。」 クッキーでこんなに喜んでくれるのかって思った。もっと、あれが欲しかった、これが欲しかったって言われるかと思ったこの子たちの給食はパンと牛乳だけ。 ![]() 「もっと」という言葉は、どの子からも聞くことがなかった。自分の与えられたものとそれを持ってきてくれた想いに、心から感謝する子どもたち。「もっとわがままになってもいいのに!」と思うけれど......子どもたちの喜ぶ姿に逆に胸がつまりあふれそうになる涙を抑えて笑顔を作るメンバー。』 被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より 冒頭に引用した子ども達の言葉にも、「もっと」という言葉はひとことも登場しないのです。その一方で子ども達が何回も何回も記述したり口にしたりする言葉があったのです。それが「ありがとう」……でした。 子ども達は、「無いこと」「無い状態」に陥ってはじめて、自分のまわりに「あるもの」が見えたのです。家族がいること。毎日米のご飯が食べられること。住むところ、寝る場所、身体を包む温かいもの。そして「未来」。 当たり前に目の前にあったものを失って何もなくなったその時に、はじめて何が本当に必要なものなのか、が見えたのです。だから「もっと」とより多くを望まなくなり、そして「今ある物」に感謝してそれが喜びに変わったのです……だから心からみんな発するのです。「ありがとう」と。 しかし、その子ども達の一方で「現実」は美しい物ばかりではありませんでした。先に引用した笑顔プロジェクトの取材記事から。東北を訪れたメンバーたちが炊き出し活動を行っていたときのこと。 『仕切りのないところでゼリーを配り始めると列を作らず、四方から延びる手。一個ずつ配る私を差し置いて、すべてを持っていこうとする。 それが本能だ。 自分の身を守るための行動だ。 生きていくための手段だ。そう思ったけど、 遠くでこちらを見ている方の姿を見つけ、このままではいけないと思いっきり声を振り絞って 「少しでも多くの人に行き渡るようにご協力ください。」 その言葉で、元に戻してくれる人もいた。』 被災地に笑顔を届けよう~がれきの山を越えて >>「笑顔プロジェクト」と「被災地の現実」(その3)より 当時、マスコミの報道は一斉に「日本ではこれだけの災害でも盗難はまったく起こらない。我慢強く潔癖な国民だ」という「美しさ・我慢強さ」アピールをしていました。けれど、現実はまったく違ったのです。この記事にあるような姿や、店に押し入る暴動が起きたこと、津波が来た途端に一斉に被災地入りした窃盗団の話、そして自衛官が目を背ける首や手のない死体の山……せっかく残った自宅の2階で寝泊まりしていた人が壁の無くなった1階をあさっていた泥棒と出くわして殺害された、という話も聞 きました。……それはすべて、メディアの報じなかった「人が生きるための姿」であり、事実です。日本人は決して美しくも立派でもない。「人間」なのです。 被災地の人たちがみんな、協力し合ってひたすら苦境に耐えているわけではないのです。明日に向かって突き進んでいるわけでもありません。けれど、メディアが報じる綺麗事に隠れて見えなくなっていたこれらの姿の方がよほど人間らしい……というか、つまりこれが、ここに至るまでの「日本社会の姿」を具現化しているような気がするのです。 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: (4、私たち一般の人間がすること。) (3) 「もっと」をやめて「ありがとう」と生きる。 突然の夕立。激しい雷雨におびえていると、バチッと音がして当たりが真っ暗になる。 見ていたテレビも部屋のあかりも消えてしまい、何も見えなくなる。 いつ復旧するともわからず不安になっていると「ご飯ですよ~」と声がかかりホッとする。食卓に向かうと、そこにはろうそくの光。静かに揺れるその灯火を囲んで、家族が肩を寄せ合って食事をする。 どのお店も7時になると閉まってしまうから人びとは買い物を済ませて家路を急ぐ。だから夜7時を過ぎるとほとんど人通りはなくなり、当たりは夜のとばりに包まれて、見上げる空には星がきらめいているのが見える。 ……実は、これ、災害時のことでもなんでもなくごく日常によく見られた光景でした。どこの家にもろうそくは常備されていて、停電は当たり前。時にはテレビも番組の途中で砂嵐になって「しばらくお待ちください」の表示。 学校で使う文房具は貴重品だからお願いして買ってもらうと鉛筆も最後に短くまるまで使い切る。落とし物をしたら一生懸命に探す。 傘や腕時計、みんな高級品。だから一度買ったら大切に使い、故障したら修理。 でも、テレビもラジオも、故障して困ってお願いすると近所の馴染みの電気やさんがひょいと来てさっと直してくれた………。「ありがとう!」「いや、またどうぞ!」そう言って帰る電気屋さんはものすごく頼もしかった。 なかなか物が手に入らない。家電は貴重品。嗜好品の食べ物はめったに食べられないごちそうで、毎日の食事は残さず大切に食べないと目の玉が飛び出るほど親から怒られた。 昭和30年代~40年代に子ども時代を過ごした今の4~50代の年齢層が生きてきた時代は、そんな時代でした。 ものがないのが当たり前だから、無くしたり残したり壊したりすることは「もったいない事」であって、人びとは物と共に生きていた毎日でした。 それが、やがて高度成長時代からバブルにに突入すると、人びとは「ものの命」についてを考える事があまりなくなりました。壊れたら新しい物を買う方が安上がりだし便利。食べるものはいくらでもあるからお腹がいっぱいになったら平気で残して捨ててしまうことに抵抗が無くなり、傘や時計などは使い捨て。電気をつけっぱなしでも「もったいない」という言葉が聞こえなくなり、かわりに聞かれるようになったのは「もっと」でした。 「もっと遅くまで」「もっと明るく」「もっと便利に」「もっと多くのものを」「もっと速く」……… 次から次に出る新商品。古いものはダサイ。直して使うなんてめんどくさい。もっと便利でもっと格好良い物が修理するより安く手に入るんですから人はそちらに向かうのはしょうがないのかもしれませんね。でもそうして大量生産するために多量の原材料が必要で、大量の電気や燃料(石油)が必要で、古いものはどんどん捨てられて多量のゴミが発生して……。 「もっと」とより多くを望むようになったことで地球はどんどん削られていったのです。そしてゴミの山が積み上がっていき、人は物に対しての想いや感謝を忘れはじめていました。その「使い捨て」文化はやがて、物だけでなく人にも及びはじめていました。「人の命」の重ささえも見失いかけていたのが、震災前の私たちの社会の姿でした。 そして起きた、未曾有の災害。人も、物も、多くの物を失いました。私たちはさらにこの先、「放射能 」によってさらに多くの物を失っていくことでしょう。 物がない。人もいなくなった。 けれど私たちは明日にむかって進まなくてはなりません。ここから先をどう描いたら、私たちは失った物の重みを忘れずに新しい未来を築くことができるのでしょうか? それは、本当に、たった1つの想いを切り捨てて、たった1つの言葉を想い出すだけなのです。 切り捨てるべきは「もっと」。 そして想い出すのは「ありがとう」。 ……それはまさしく、被災地の子ども達の作文にあふれているまったくそのままのことなのです。 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 「節電」を声高に人びとが叫んだ時、私は自分の子供のころのことを想い出しました。 「節電中なのでご不便かけます」と書いてあるチラシのお店の中で不便を感じることなど一度もありませんでした。夜の街灯。深夜まで明るいネオン。「本当にこれが必要なの?」……そういう目で自分のまわりを見回せば、色々が見えてくるのだと思います。 太陽の下で活動し、夜になったら休むという自然の摂理を曲げて「もっと」を望むから余計な電気を食い、余計なエネルギーが必要になるのです。 「原子力発電がなければ電気が足りない」……本当にそうでしょうか?こんなに世の中夜遅くまで明るくする必要はあるのか?こんなに必死で電気を生み出して、それを大量に使うのはどこでしょう?それは決して「個人の家」ではないのです。「電気が足りない」と言っているのは一般の人びとではなく……「企業」なのじゃないでしょうか? なければないで、やっていられるのです。 ただ今までは「あること」が当たり前だったから、無い状態を知らないだけ。知らないから怖いだけ。 今、ここまで来た社会が突然それをやるには大変かもしれません。「無理だ」という人もいるかもしれません。 けれど、幸いにして「そういう時代を生きた人たち」が今まだたくさんいるのです。物がなかった時代。今よりももっと、人の技術も進んでいないから災害から受ける被害も今の比ではなかった時代の人たちが……。戦争。ヒロシマ・ナガサキ。戦後の荒廃の時代。そして何回も日本を襲ったたくさんの災害。それらの物を生き抜いて今に生きる人たちが、そして、そういう時代の「歴史」という記録が、まだちゃんと私たちには残されているのです。 まわりを見回せば、そういう時代があって、そういう人たちがいる。そういう人たちが「もっと」と望まず「ありがとう」と感謝して生きてきた時代の話・その時代の知恵を、過去が私たちに残してくれた大切な蓄積・記録として紐解いて今に生かすことができたら。 私たちはきっと、また立ち直ることができるはずです。より良い明日を見つけること、その手がかりを掴むことができるはずです。「また、再建しましょう」と救助された疲れも見せずに笑顔で語ることのできる、こういう人びとに学びながら。 さいごに。 この被災地巡りの旅に、わたしがもっていって現地の人びとに手渡した物があります。 それは「希望」です。 希望は、いったいどこから生まれてくるのでしょうか? 長い長い記録のまとめの一番最後に、その事を書きたいと思います。 :::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*:::*::: 被災地をめぐっての3日間~7希望が生まれる時 に続く。 |
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